崩れる通信

「崩れる本棚」創作コンテンツ用のブログです。

崩れる通信 No.31

スーパーな書き手が帰ってきました。

崩れる本棚です。

今号から、ジワジワと、崩れる通信は、フィクション方向へと遷移し、より小説小説した通信と、なっていくことを、ここに誓います。

誓います。

一作目、高橋己詩の新連載小説『パック入りチョコ』第1回。

二作目、Pさん『とこしなえにゆるいや』2nd。

運動会は、遂に、ここにおいて、開始を、いたします。

いたします。

心の底から楽しんでください。絶対に。

パック入りチョコ

第1回

高橋己詩

なまにく食べたい。

なまにく食ぺたい。

この二つの言葉には、ある種の「異なり」が生じている。

なまにく食べたい。

なまにく食ぺたい。

どうだろう。「異なり」を、感じていただけただろうか。

この「異なり」が含有する異質さを端的に説明するという行為は非常に厄介であり、これに対して積極的な姿勢を維持するのは容易ではない。それほどこの「異なり」は複雑怪奇な奥ゆかしさを持ち、奥ゆかしさの奥へと進むほどに複雑さは度合いは高まってしまう。

例えばもし、ある人間が別の人間に対しこの「異なり」を端的に説明するがため、様々な分野の学術書を読み漁り研究を重ねたとしよう。分野の代表的なところとしては特殊相対性理論や、量子形而上学あたりを想定していただけるとありがたい。研究を開始して間もない頃は「異なり」周辺の知識を摘み、徐々にではあるが理解していく。しかしそれも最初のうちのみで、更に一歩一歩と先に続く領域へ踏み込んでいくと、度々現れる分析心理学の罠にはまり、その壁を越えることができず、研究は頓挫してしまう。いや、そこまでいけばまだ良い方なのかもしれない。最初のうちの理解すらも単なる誤読、誤解に過ぎないことが大半であり、実際には微細な理解すらもしていなかったことに後に気づき、うわぁ、なるのだ。事実、この究極の難問に挑んだ多くの専門家、学者、パーリーピーポーが研究途中で過労死したり、失踪したり、自らの専門分野からも手をひいてきた。

量子の状態の収束過程を球体で示したことで「量子力学の風雲児」と呼ばれたサミュエル・L・ジャクニコルソンも、実はこの「異なり」を独自で研究、調査し、学会で見解を明らかにしていた。そんな彼もまた、分析心理学の罠、集合的無意識の障壁を越えることができず、うわぁ、なっていた。

ある朝、サミュエル・L・ジャクニコルソンはいつものように州立中央研究センターへと到着。片手にはヴァニラ・クリーム・フラペチーノのヴェンティ。いつもと変わらない八時半。だが受付まで来たところで、入館証を自宅に忘れたことに、彼ははっとする。そこへ通りかかった同僚に「おぉ、なんてことだ。僕としたことが、入館証を忘れてきたしまったよ。はっはっは。これから家へ取りに行ってくるから、十時の会議はパス、とワインバーグに伝えておいてくれ。それからメールボックスの整理を頼む。これが抜けるとまたリサに怒鳴られちまうからね。今晩、僕の家の庭でパーティーをしないか」と一言。

それ以来、彼の姿を見た者はいない。自宅で発見されることもなく、ただ彼の積み重ねてきた研究の成果が研究所に残されることとなった。

このように、「異なり」は人間の人生を翻弄してきた。

学術的な実証を試み、成功したかのように見えても、別の側面から見直すと、一切の進展が見られなくなってしまう。そして成功したかのように見えていた側面からも、人間は見放される。

ところが、科学的にも物理的にも捉えようのないこの難問は、文学的にはある程度の進展が見られた。

文字上の解釈を巧みに操り、パッチワークをするかのようにあらゆる分野をつなぎ合わせ、それを一つのフィールドとして形成した。すると文字通り縦横無尽な解釈が可能になり、「異なり」の謎は、謎ではなくなった。解かれ、説かれた謎はほんの一部なのかもしれない。いずれにせよ、人間が生き抜くうえで「文学」は特に重要な分野であることをも、証明する結果となった。

科学や物理ではなく、文学こそが実証的であり、実態を捉えるのだ。

この文学的なアプローチを行ったのは誰か。

それはもちろん、小説家である。

高橋己詩

「ねころん」の作者。

とこしなえにゆるいや

2nd

Pさん

運動を切り取る……運動を切り取る……

そう呟きながら、夜十一時の駅前を歩くヤ染がいた。最後らへんのバスが停留所で停止し、発進した。閉店作業も終えた薬局やドラッグストア、マツモトキヨシの蛍光灯が瞬いてから消え去った。

地面をいろんな音で捻り去っていく二輪や四輪の車両があった。

とっくにシャッターの閉まった駅前の古い書店の前を通りすがりにまた呟くヤ染がいた。

運動をそのまま切り取る……運動だけを切り出す……

書店には売れるはずだった低学年の女子小学生向けの雑誌や、いい言葉を書いた介護の本などが、暗い空間に沈んでいた。

古い書店と、隣の潰れた化粧品販売店との間には隙間があってその間に停めてある自転車があった。

頭の中で何度か運動だけを切り出す訓練をした。孔子にも荘子にも出来て自分に出来ないはずはないという思いこみがあった。ラジオが電磁波で流れていた。

とこぷよをプレイする銀枝根の姿があった。

とんかつ屋の二階は、白いマンションだった。

ディナー屋の二階は、白いマンションだった。

そうこうするうちに、目当てのディスカウントショップに着いた。コンビニで買ったり、「RAIZIN」として買うと高くつく、エナジー系ドリンクを、ノーブランドでディスカウントショップで買うために、駅前の、くんだりまで、徒歩でヤ染は歩いてきたのだ。

歩いてきたヤ染の姿がそこかしこにあった。

日中ならワゴン車を改造したクレープ屋が当然のように居座っているアスファルトの上にはただ、空気だけが乗っかっていた。

その先にはなにもなかった。駐車場だけがあった。

一旦、二つある階段の登れない方の階段の方の出入り口から入ろうとして、間違いに気づいてやめて、二つある階段の登れる方の階段の方の出入り口の自動ドアを開いてそこから入った。

階段から、二階に登った。

二階の正面に、すでに冷やされたドリンク系の冷蔵ドアが、いくつか並んでいた。その向かいの列には、冷やされていないドリンク系の陳列棚が、並んでいた。

すでに冷やされているドリンク系の冷蔵ドアのガラス戸の中にコンビニで買ったり「RAIZIN」などとして買うと高くついてしまうノーブランドの「お墨付き」のエナジー系ドリンクが既にあることをヤ染は知っていたから、まっしぐらにここに向かったのだった。

一旦、二つある階段のうち登れない方の階段の方の出入り口を選んだとはいえ。

そして、その「RAIZIN」でも「MONSTER」でもないノーブランドの「お墨付き」のエナジー系ドリンクを目にして、冷蔵ドアのガラス戸を引いて開けて、エナジー系ドリンクを手にして、階段を降りる際には、運動をそのまま切り出すこと、運動をただ運動としてのみ切り出し、形質から遠く離れることについては、完全に忘れ果てていた。

ちなみに、日中ならば、二階のレジスターが稼働しているのだが、閉店間際のディスカウントショップにおいては、一階のメインレジスターのみがいくつか稼働していて、二階は稼働していなかった。

なので、日中にエナジー系ドリンクを買いに来たのであれば、そのまま二階のレジスターに通し、値段を払い、結局階段を降りて、出入り口の自動ドアを開けて出て行くのだが、日中は、覚醒しているためエナジー系ドリンクは必要ではないので、エナジー系ドリンクを単体で購入することはないので、エナジー系ドリンクを単体で購入しにディスカウントショップに来るような時は、ほとんど、一階のレジスターで値段を払うことしかないのだろう。

値段は消費税を合計することで下一桁がちょうどよい数になった。

押しへされるほどの快晴の夜天の下に出て、その場で、というのは駐輪場の二列並んでいるど真ん中で、エナジー系ドリンクを開封しながら、再び

運動をそのまま切り出す……

という考えに捉えられはじめるヤ染がいた。

Pさん

「推論G(ゲー)」の作者。

崩れる通信 No.30

ハーイ。崩れる通信であるよ。

みなさん、文学フリマの首尾はどうだったかな?

憂いのある者もそうでない者も、みなひとしなみだね。今回の崩れる通信は、

一作目『ホニャホニャプーの棒』第5回 憂野

二作目『音楽とラジオと音』第6回「"聴きながら昼寝ができる音"のぜいたく」yoshiharu takui

三作目『とこしなえにゆるいや』Pさん

以上三作。

これから、だんだんと、フィクション率を高くしていこうと思います。

それから、音声での書評企画も考えております。

よろしく!

ホニャホニャプーの棒

第5回

憂野

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野良猫の眼球はぶにぶにと弾んで形を変えていき、街路に馴染む。コンクリートに画鋲。画鋲か猫の眼球か犬の眼球か星が落ちてきたか、突き刺さったままでは判別つき難し。ほくほくの焼き芋、それもとびきり上等なやつだった。マーキング。

脳の機能を機械化、薬物投与、人工脳の移植などで限界まで拡張された。ロボトミーのような大きな欠陥もなく。発声器官、脳からの指令を一分の狂いなくこなす肉体。生物として間違った方向から、夜明けまでのごみだめに住み着く、たどり着く過程。

猫に明確な意識。そのときの苦痛。遺伝子からして人工。感情があるのかないのか、激しいのか緩やかなのか、人類にはおよそわからない。電気信号。自分ということ。肉と鉄と、と、とと。どこからどこまでか未来には自分と過去からここにいた手術台の冷たさと、心理的に冷たい場所。嘔吐のあたたかさ。ねずみを追いかけることだけ?冗談じゃあない。ねずみより狩るべき動物?瞬発力。

倫理は欠落しているの?神の意志が介在できない動物の存在。宗教的神ではない。バランスをとるために必要な力としての神。ばらばらなエネルギーを統合して世界を世界に保っている生物の規定なんかも含む、システム。

無視してこの次元に生き続ける生命への冒涜。狂ったから逃げ出して、正しくあるのはどれかと問うても自個人のみの夜の道、文明の内側にいても、それは人間の合理を押しつけた文明にすぎず、確かに救いなどない孤独な世界を見つめてどこまでも続くスーパーコンピューターの世界と統合できない位置の両極端な精神を安定できてしまう脳構造。

エネルギー源は生ごみ。逃亡しつつも野良猫。いくらはずれた能力でも野良猫というカテゴリー。サバだのアジだのサンマだの、溶鉱炉に骨ごとぶち込んで、というのはもちろん冗談だが、猫型ロボットの旧設定でもあるまい、青くはないのだし、猫なので、ロボットではないので、ある。

均衡のとれた世界を崩す害を除かねばならない。それも、世界の均衡を崩さぬように、注意しながら。原理を崩壊させたなら簡単に滅ぶ。無から有を作ってはいけない。最初はなにもなかったはずだ。猫も世界も。無から有を作ったのはだれ?規定を規定した規定はなに?エラーを吐き出した。自己破壊。と、暴走。突き放された次元でそもそも前提から変えてあとから整合させてしまえばいい。唯一目的はウイルスの排除。

神は神と神の存在と猫から猫へ渡る時空から通じないサイケデリックな生命体への警告として経過したから実行された制裁は失敗する。すべては行動の計画をした時点で済んだことになっている。演算機能。予測可能な範囲。

指が、はえる。逃げる。指が、はえる。逃げる。眼球をもぎとられも逃げる。ぴょんぴょん跳ねる。人間には知覚できない。

壊れたラジオからノイズが流れる。川の音と交互に。仕切られた空き地。

越権し顕在化しだす。地面から物理の指。人間を模している。五本。はえ出す。完全に埋まった形で。目玉から信号で停止。

猫はどこかへ消えてしまった。死んだのだろうか?

定例会議。

気狂い隊長は先頭で指揮をとる。街灯のいやな光。

「さ」

「さ」!

隊員は睡眠から戻る、夢はみない。

ひゅ、ひゅ、ひゅ、ひゅ、ひゅ、ひゅ、ひゅ。上へ、上へ。誰もいない時間だから。成層圏。呼吸、固有!魚のえらのように、えらのように!

ああ、いい眺めだ。でででででででででで、あう。鉱物からかつおぶしまでの寄せ集め、生ごみよりも上質なタンパク源。

「ちぢめ、ちぢめ!」

「ちぢめ、ちぢめ!」

さようなら、みなさん。

猫は光線で焼かれた。

皇帝は、猫のステーキがお好きなようです。いいかおりが町を包みます。さぁさぁ寄っておいでなさい。この神の掌に、極上の皿に、集まるのです。高級なもので。

歌詞カードを見ないで歌っていたら、爪で正された。空から来たのだ。外来種のフライング・キャット。翼猫はたまに出現する。翼といっても、腫瘍のようなものであり、飛行機能は搭載されていない。米軍の陰謀であった。フライング・キャット生産工場は爆発して、日本にも飛んでくる猫はたくさんいた。

猫は猫のステーキを食べるだろうか?

僕は、食べないと思う。

だって、まずいもの!肉はカタくて食えたもんじゃない。

熱された光輝く棒に虫がとまって、焼け死ぬ。

猫の皇帝は、虫のステーキがお好きです。

「魚のほうが好きだけどね」

金切り声あげ、割り箸に刺したゴキブリ、バッタ、カマドウマ、などなど。焼きマシュマロ。

猫の皇帝は頭脳がロボットよりも優れていて、猫駆除レーザーは対策された。

リセット。

猫のいる町。

不自然な場所に不自然な物体がある町。

神のいない町。

皇帝のいない町。

魚は、おいしい。ので、赦されました。

憂野

たぶん人間。

音楽とラジオと音

第6回 疲れない音のぜいたく

yoshiharu takui

同い年のシンガーソングライター、古賀小由実(こがさゆみ)のCDに、『うちの妻が入院することになりました』というタイトルがある。5月6日に会う機会があったとき、このCDを製作する時の思い出を聞いた。

「アルバムを作る時に“聴きながら昼寝ができる”ってことを大事にしたんです。

ミックスとマスタリングはプロの方にお願いしたんですけど、自宅とか車の中のスピーカー、いろんなところで聴いた時に疲れない、うるさくない音を大事にして作ったんです。

それで、自分の曲で昼寝ができるかやってみたら、ちゃんと眠れて。(笑)よかったなぁって思いました」

ああ、聴きながら昼寝ができる音って、いいもんだよなぁ。話の世界に入りながらそれを実感して、またお互いの話が弾んだ。

実際に、『うちの妻が入院することになりました』のCDは、ひとりひとりの聴き手に寄り添いながら、音がキンキンと響いたりすることのない、自然なバランスで作られている。

それには、「聴きながら昼寝ができる音づくり」という言葉がふさわしいと思う。

「最近の曲がよく聴こえるのに、昔のいい曲がよく聴こえないってのは面白くないから、まんべんなく楽しめるようにしたかったんだよ」

よき友達と、家で一緒に音楽を楽しんだとき、こう話したことがある。新しい曲も古い曲も、まんべんなく楽しむためには、デジタルとアナログの結びつきが、いろいろな部分で役立っている。

「聴きながら昼寝が楽しめる音」は、その結びつきのおかげだ。そして、いろいろな音楽メディアがあり、時代を超えた音楽の楽しさを、気楽に感じることができる今。

良い時代に生きているなぁ、と感じる。

しかし、その認識を少しは改めないといけないな、と思うことがあった。戦前の蓄音器で、レコードを聴いたからだ。

銀座三丁目にあるお店「シェルマン」では、戦前の蓄音器をていねいに修理して、手入れを欠かさないことで、現代でも充分に使えるようにして販売している。

そこに展示されたものの中から、輸入品の2台の蓄音器を、ゴールデンウィーク中のお店に伺って、聴くことができた。

アメリカ製の「ビクトローラ・クレデンザ」と、イギリス製の「グラモフォン・HMV163」は、両方とも、1925年から27年の間に作られた。

戦前の日本では、相当な高級品、ぜいたく品で、クレデンザに至っては「東京都内で一戸建ての家が買える値段」で売られていたという。

その2台の蓄音器に「竹針」を使って、レコードを聴いた。文字通りの竹で作られたレコード針で、片面を聴き終わるごとにハサミで切って、新しい針にして使っていた。

竹針で聴くレコードは、鉄のレコード針よりもノイズがずっと少ない。チェロ奏者、パブロ・カザルスのレコードを聴きながら

「ずっと聴いていたい、聴きながら昼寝ができそう......」

心からそう感じた。アナログやデジタルが手を結ぶことは考えられず、録音から再生まですべてがアナログだった時代だ。

予想以上に(といっては、蓄音器に失礼かもしれない)、いい音がした。「昔の音」と笑ってはいられない。

2台の蓄音器はまた、家具としての仕上げが本当に美しかった。木目を触ってみても、今手に入る家具とは比較にならないほどの「本物としてのオーラ」がある。

「大衆向けに、広く使ってもらえるような製品を作ろうとすると、クレデンザや163みたいな仕上げというのは、どうしても無理なものなんですよ」

シェルマンの方も、こう話していた。

クレデンザやHMV163が憧れだった時代と、家で音楽を聴くことの重みがまったく違う今、こういった製品は世に出てこられないと思う。

自分自身も、大衆化の恩恵を受けて、家や外で、いろいろな時代の音楽を楽しんでいる。

それは、19世紀の後半に蓄音器が発明されることで生まれた、音楽の記録の歴史から見れば、本当に、つい最近のことなのだ。

家が買えるほど高価だった蓄音器より、はるかに性能の優れたオーディオがある。あまたある音楽を、いつでも聴くことができる、携帯音楽プレーヤーやスマートフォンがある。

80年以上前の人々からすれば、夢の中でも体験できない、恐ろしいほどのぜいたくに違いない。

それを想像したとき、“良い時代に生きている”という慢心を捨てる必要があるのかもしれない。蓄音器の音を聴いて以来、こう思う。

とこしなえにゆるいや

Pさん

室内から、自動ロック式の錠がついている扉を開けると、マグネシウムを焚いたように光がバッと来て、それから目が慣れて、光が退いて黒い輝くアスファルトと目の前の建材屋が、強風に煽られてゴミを飛ばしているところがはっきりと見えるようになった。

建材屋のガレージの隙間を利用していろんな建材が置かれていて、素人目に建材だとわかるのはある種の金属やプラスチックのパイプで、太いパイプの中に細いパイプやより細めのパイプを詰めてスペースを有効利用しているのだが断面を見るとマトリョーシカみたいに見えて面白い。

建材屋(ところで、それが本当に建材屋だったのかどうかは定かではない、建材と見えるものがたくさん置いてあるからといって、建材屋であるとは限らないからだ)はそのパイプを面白い配置にしようと思ってそう並べているのではない。スペースを有効利用したいだけだ。建材屋には他に、石が置いてあった。

朝六時二十一分、北西に延びる道の正面から、暁光を背中から浴びて、起毛の部分にコロナみたいに光を溜めて、何も見えないシルエットの状態となってこちらに向かってくる人を見たときのことを思い出した。

それは交差点で、信号が青になる頃には目が慣れて、その人は自転車に乗った、白いセーターのような服を着ている女性であることがわかった。

その女性は、さりげなく横断歩道を渡った。

腰が痛い。数日前から。

ホチキスの針を借りに行くと、電話対応で少し待たされた。

ホチキス自体を借りることにした。

それから、布を切るための普通のハサミを借りた。

ハサミで何の考えもなく布を切ると、大量に解れる。

とはいえ、解れずに布を切る方法を誰かが知っているとも思えない。

日常生活であれば、そうそう、布を切るということはないだろう。

たとえば、朝ご飯を食べているときに、「渡る世間は鬼ばかり」が流れている。

ドラマの中で、九州の州知事が幻覚剤を使用して自分の思い出がコピーされているところを空想していると、ライザップの指導員が

「プリンは食べない方が良いでしょう。プリンは、人体のタンパク質を溶かし、結果、こうなるでしょう」溶かされた死体のイラストの現物が見せられた。

ライザップの指導員は、連携している。あらゆる芸能人のライフサイクル、バイタルサイン、憂鬱と帰納法の収縮した現象すべてを把握しているからそのネットワークたるや

「プリンを食べない方がいいでしょう。プリンの形をした枝豆で出来たトーフを食べましょう。

トーフは、おしょうゆではなく、塩をかけて食べます。

くそまずいです。

ほら」といって顔にプリンの形をした枝豆で出来たトーフを押しつけてくる「くそまずい。くそまずい」

日常生活に支障のない範囲で連絡を密にしようとすると、どうしても別のものを対価として差し出さなければならない。

夕焼けに映える映像は、フィクションなどで見慣れているし、その頃には意識がはっきりしていることがほとんどだから、印象に残りづらい。

朝の混濁した意識に差し込む光と映像だったから、それほど印象に残ったということだろうか。

ところで、光と映像とは同じものなのだろうか?