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崩れる通信

「崩れる本棚」創作コンテンツ用のブログです。

崩れる通信 No.-2

今回は、エッセイづくし。

先手は、元演劇関係者出身の、ウサギノヴィッチ氏による『ウサギノヴィッチの「長ゼリ」』。エッセイを書いてくれと言った某氏に一言物申したいそうです。

後手は、特に何でもないPさん氏の『Pさんぽ』。ただ散歩する……だけ? 一旦頭の中を開けてピューレにしたいですね。

では、どうぞ。(ブーーーッ)

ウサギノヴィッチの「長ゼリ」

第1回

ウサギノヴィッチ

僕は怒っている。twitter では常になにかに怒っていて悪態をついている。それは見えないだれかで、不明確ななにかだ。しかし、今回は明らかに編集長のPさんで、今回のエッセイについて怒っている。

「ウサギさん、演劇についてのエッセイをちゃちゃっと書いてくださいよ」

「演劇」についての「エッセイ」を「ちゃちゃっと書く」だと?

ふざけている。なにがふざけているか。まず、僕が演劇に詳しいという、ステレオタイプとも言える判断。いや、実際には普通の人よりかは詳しい。だって、十年前には演劇をやっていたわけだし、小劇場の観劇はメジャーなところだと五年前まで同じ公演に二回以上は足を運んでいたし。友人が役者をやっているので今も見に行っている。普通の人よりかは演劇が身近な人間なのかもしれない。

だ、け、ど、だ。それでも、ウサギさん、書いてくださいと言われて、「はい、書きます」と言ってみたものの、演劇のエッセイなんてなにを書いたらいいかわからない。エッセイについて書くことは苦手である。前に所属していた文芸サークルでのエッセイを書いた時の合評会が盛り上がらないことがトラウマとして残っている。

しかし、書けと編集長に言われてしまったら、書かなくてはならない。「命令」されてから、演劇のなにを書こうかと悩んでいたら、昔のことを書いてもいいのかもしれないなと思った。

今から、十年前、ロストジェネレーションの二十歳前後の男女が集まって、劇団を立ち上げた。年齢が年齢なので、惚れた腫れたの騒ぎが水面下いや水上にズッポリと出た状態でざわめきだっていた。公演ごとに人が入れ替わり立ち替わりして、固定のメンバーなんて少なくて、劇団なんて形だけのものに過ぎなかった。結局は、主宰のやる気が徐々になくなることで、劇団は静かに休止という名の解体がされていった。劇団が休止状態には、他の劇団の手伝いをすることをしていた。演劇の側にいたかった。そのときには演劇しか自分にはなかった。でも、そのときには自己プロデュース力と積極性がなくて、他の劇団の客演をすることはなかった。

それに先に書いた通り、劇団の惚れた腫れたところに自分も隠れて入っていたのだ。しかし、それが表沙汰になるのは五年も後のことだった。

演劇のエッセイを書くということは、自分の過去と向き合わなければならないとうことだ。そして、まだ、これからなにを書くかは未だに不透明であること。おそらく。次のエッセイで、僕と演劇についてのことをカウンセリングのように向き合わなければならない。もしかしたら、編集長の意向で「それより本題を書いてくれ」と言われるかもしれない。見切り発車も甚だしい状態だが、僕なりにベストを尽くしていこうと思う。

(了)

Pさんぽ

第1回

Pさん

特に宛もなく、どこかへ散歩にでも行くように書き出す、あるいは何の目的もなく書いているかのように歩き出した。家を出て、スニーカーを履いて、昨晩の台風で家の玄関の前に合板の切れ端が転がっているのを見つけた。よその家の合板だったらいいが、もし自分の家の一部であったら、というように考えるところが人間の利己心の現れである。猫が寄ってきた。

猫は何の警戒心もなく、というか警戒心がないことを表現するために背中を反らせ、白い腹を出して四肢を伸ばして転がっている。撫でてやると、いつまでも撫でて欲しそうに頭をあらゆる角度からこちらの手に向かって突き出してくる。

猫の時間は無限にある、あるいは時間を際限なく求め続ける。それはこの猫だけの特徴なのかもしれないが、これはうちの飼い猫だった。人間の時間は限られている。撫でるのを止めて、玄関の段差を降りると、存外にあっけなく

「もう終わりか」という表情をして前足だけ立たせてこっちを見ている。

家の側面はマンションと接していて、マンションとアパートの違いというのは、厳密には決まっていないそうだ。おおよそフィーリングによって、「これは、アパート、決まり。」と不動産屋が決めてしまえばそれをアパートと呼ぶのに抵抗する人間は地上からいっさい消滅する。「これは、マンションかな、決定。」と同じく決めてしまえば、たとえ三部屋×三階建ての、玄関を開ければ畳の一室を抜け、向こう側の窓の先の道路まで視界の開ける、見晴らしの良い、たまにアリが室に進入してくる、ザ・アパートであっても、彼の一存により、そこはマンションとして存在を開始する。マンションとは、英語圏では「豪邸」の意味でよく使われる語であるそうだ。

その建物はマンションとアパートのちょうど中間のように主観的には思えた。ややアパート寄りであるだろうか。一階部分のベランダはすべて繋がっていて共用で、そのうちの誰のものだか不明なプランターが、雑草生え放題で転がっている。

わが家は絵に描いたようなクランクを潜り抜けた最奥にあって、そんな立地なのにも拘らずそこを通らなければならない車が五台はあって、近隣住民が車庫入れをしないから道路に二、三台の順番待ちの車が溜まっていることも、よくある。

そこから公道に出たことにして、正面に見晴るかすキャベツ畑の景色を、次に見ても良いのだが、この辺りでいったん歩みを止めても良いし、そもそも歩いていなかったことにしても、何ら問題がない。ここに肉体を持った存在はなく、模様と音だけが浮遊する、SFの一場面みたいな、理想空間だとしてもいいわけだ、「ヴィジョン」のスイッチをオフにすると真っ白い矩形の密閉空間があるばかりで、他にいっさいの塵が払われている、けれども何の因果か、清掃員が最後のモップ掛けを終えて退室する際に、うっかり、自分の陰毛を転げ落ちさせてしまって、空間の隅からそのひとかけの陰毛がじっとこちらを見ているのだ。この場合、書き手と読み手は一本の陰毛を媒介として、それを互いの想像空間に共有しながら、それぞれに空想を広げていく、そう考えるのも、面白みがあっていいものだ。

残念なことに、清掃員が立ち去る際に閉めた扉は、物理的に他の壁の部分と癒着して、この空間は全く密閉されていて、陰毛は白日の下にさらされ、風に転がり、永遠にわれわれとともにあり続けるのだ。(続く)