崩れる通信

「崩れる本棚」創作コンテンツ用のブログです。

崩れる通信 No.2

崩れる通信、第2号発刊です。

今号より、「崩れ者」達が手から手へ小説のバトンを渡す、リレー小説企画がはじまります!

第1回は、崩れる首長、ウサギノヴィッチ氏です。

ちなみに、崩れる本棚’s blogの方で、その前身となる即興リレー小説が公開されています。

が、今度は、規模と人数が違います……!

お楽しみに!

二作目は、みなさまお待ちかねの、高橋己詩氏のエッセイです。

自身、ツイキャス等で放送していた映画評を、エッセイとして書いて頂きました。

最後には、もうおわかりですね? 毎度読む必要のない、Pさん氏の『Pさんぽ』です。

以上。急激な気候の変化で、身も心もズタズタに引き裂かれる時節だとは思いますが、ぜひ楽しんでいって下さい。

崩れるリレー小説(仮)

第1回

ウサギノヴィッチ

某新聞の地方欄のページの右のページに次のようなことが書かれている。

『平成の切り裂きジャック 新たな犠牲者が出る』

とでかでかとだれの目にもとまるような感じに載っていた。

平成の切り裂きジャックというネーミングセンスはともかく、僕の住む町では新聞に注目されるような事件が起きる。しかし、テレビでは決して報道されない。

事件の概要を話すと、二十日くらい前から人を切り付ける通り魔が現れた。しかし、一つだけ特殊なことがある。それは、犯人は服だけをうまく切り裂いているということだ。しかも、特殊な趣味なのか、女性だけが狙われている。時間は昼夜問わずに起こっている。犯人の目撃談も人によってさまざまで、共通していることは何かしらのマスクやお面をかぶっていたということだった。体型などについての情報はない。模倣犯の可能性も考えられたが、全部の被害者がメスのような小型の刃物で下着以外を、つまり、服だけを切り裂かれていることだった。県警は捜査本部を作って、見回りを強化しているが、事件は一向に収まりそうにない。

先ほどの新聞の左のページに目を移すと次のようなことが書かれている。

『十三星座教団 教祖 天馬榛木 占いで行方不明の老人を見つける』

切り裂きジャックの事件ほど大きくないが、見出しがついていて、ほかの記事よりかは大きいニュースとして扱われている。

三星座教団とは、教祖の天馬榛木によって創設された新興宗教だが、信仰している人からお布施をもらったり、施設で人を集めたり、他の宗教から改宗させたりとかは一切やっていない、クリーンな宗教だ。信仰の証としては、天馬榛木の本『運命を切り開く十三星座』という本を毎年出しているので、それを買うだけでよい。そもそも十三星座とは、普通の十二星座にへびつかい座を足したものである。すべては「へびつかい座との距離で決まる」と天馬榛木は言っている。要するに、へびつかい座と自分の星座と生年月日を連結させて導きだす。計算さえできれば、だれでもできるし、その予言とも言える占いが各地で当たり、全国で爆発的な人気が出ている。しかし、天馬榛木は地元から一歩も出ることなく、人探しなど地域貢献をしている。天馬榛木は地元に住んでいることは、僕も知っているが県内のどこかというのが特定されていない。それはセキュリティの問題なのかなんなのか、公にされることはなかった。人とのやり取りもメールが多くて、本人を見たことある人が少ない。

開いていた新聞を閉じて、テレビ欄を見る。テレビの改編期だから、スペシャルが多い。BS に目を移すと野球とサッカーがやっている。見るものがないと判定した僕は、自分の部屋で漫画でも読もうとした。先にテレビを見ていた妹がクイズ番組を見ながら、出演している回答者と一緒に答えを考えている。

「お兄ちゃん、わかる?」

部屋を出ようとして、腰を上げた時に妹が尋ねてきた。問題文を黙読して答えを言う。

カルボナーラだよ」

妹が感心したような声をした。そして、復唱して自分になじませているようだった。部屋を出るころには正解が発表されたらしく、「お兄ちゃん、すごぉい」という声が聞こえた。クイズが得意なんてことは自慢できるものではなく、自信にもならない。人から尋ねられると反射神経で答えが口から出てくるから、恐ろしい才能だ。才能というか特殊能力とかって言ったら、ちょっとオタクっぽいか。

なんてことを考えながら部屋に戻る。漫画を読むって決めたけど、本棚見回しても、面白そうなものが見つからないから、ベッドの上で胡坐をかいて考える。隣の家の電気がついている。敦子がいるしるしだ。敦子とはもうすごいくらい長い付き合いだ。人生の半分、幼稚園、小、中、高校と一緒だった。大学はさすがに別々になった。お隣さんの域を超えていると思う。もう家族だ。向こうの両親も僕のことを家族同然で扱ってくれる。しかも、部屋が向かい合っているなんて、昭和のラブコメ漫画みたいだ。そんな運命の神様のいたずらみたいなもの無視している。だれかに決められた人生みたいで、僕は自力で運命という見えない力にあらがっている。たまに、気持ちがへし折られることがあるが、それでも自分の力で神様の決めたことに反対し続けている。今日はその気持ちが薄らいで、いや、揺らいだのか、とにかく、敦子に会ってみたくなった。

窓を開けて、向かいにある敦子の部屋の窓をノックする。しかし、反応はない。部屋の中で「がさっ」と音がした。もう一回ノックする。また反応はなかった。「まさか」と思って、敦子の部屋の窓をスライドさせると開いた。部屋にはほとんど無駄なものがないといっていいほど、綺麗に整理整頓されていた。その部屋のベッドの上に服が切り裂かれる状態で眠っている敦子がいた。(続く)

映画を読むあれ

第1回 『十二人の怒れる男

高橋己詩

映画や小説に登場する名探偵は、多くの供述を集め現場をくまなく観察し、事件の真相を推理し、作品の最後には「犯人はお前だ」と推理を締めくくる。その推理自体は演繹的プロセスである。しかし名探偵は実際、事件発生後の現場を目にし、そこから推理を始めるものであり、そのプロセスは帰納的である。簡単に言ってしまえば演繹的帰納法という手段をとっているということだ。

さて、本題。

ニューヨークの法廷。スラム街の少年が「父親を刺し殺した」として、死刑に問われている。退廷した 12 人の陪審員は、陪審員室へ。有罪か無罪か、言い替えれば少年を死刑とすべきか否か、それをこの部屋で協議するわけだ。しかし決して快適とは言えない環境の部屋に押し込められている上、各々がその晩に用事を抱えており、一部の者はこの陪審員制度に辟易している。まともに責任を持って話し合いをしようともしない。何と言ってもこの事件には目撃者がおり、物的証拠となるナイフも見つかっている。どう考えても少年は有罪。協議の余地もない。

陪審員の誰もが早々に「有罪」を主張しているところ、ヘンリー・フォンダ扮する陪審員 8 号が疑問を呈す。「有罪であるという確証はない」と。陪審員 8 号は目撃証言の信憑性の低さや、この裁判そのものが含有する偏見について次々と指摘し、極めて冷静に主張を展開していく。その主張によって、一人、また一人と意見を覆していくのだった。

密室劇の傑作であり法廷映画の金字塔、ご存知『十二人の怒れる男』。シドニー・ルメット監督による、1957 年の映画である。多くの推理モノの中でも引けを取らない緻密な構成が圧巻。陪審員室というたった一つの舞台で推理と主張が重ねられる展開は一切の無駄が省かれているものの、その推理と主張が走り気味になることはなく、じっくりと時間をかけて展開されていく。特に評決に際しての多数決のシーン。一票一票読み上げることで増していく緊張感は、「引っ張り」が効果的に取り入れられている証拠だ。こうした要素に観客は翻弄されることだろう。

しかし、登場人物の性格が一辺倒であるところは、些か残念に思えた。ほとんどの人物はどの時点から出会っても同じ人物であり、生の人間性が欠けてしまっている。変化する人物とそうでない人物が混在しているからこそのコントラストはあるのだが、それが功を奏しているようには思えなかった。テレビドラマとして制作されていたシリーズの延長であるため、その時間枠や時間配分、ついでに挙げればクローズアップの多いカメラワークも、劇場映画向きではないような印象を受ける。

とはいえ、一人ひとりの性格や生活環境が各人の主張にリンクしているところを見ると、推理モノとしては、やはり見事な脚本としか言いようがないのである。

この映画の最大の特徴を、私はこう捉えている。

証拠や証言によって少年が殺人事件の犯人であると考えられ、ほぼ有罪は確定。映画はこの時点から始まる。演繹的帰納法を用いた推理は既に結論に至っているということであり、過程としては描かれない。しかしここから、陪審員 8 号の推理が展開される。肝心なのは、「有罪とは断定できない」という主張へ向かう推理は演繹的帰納法であるものの、そこに留まらず、演繹法での論も立てられているということだ。具体的に言うと、あらゆる材料を基にして少年が犯人なのかと帰納するのではなく、あらゆる材料を加味したうえで有罪とも無罪とも言い切れないこの状況に、どう折り合いをつけるべきか、そこに演繹していくことになる。これはつまり、帰納法を用いながら紡がれた演繹なのである。

この一風変わった帰納演繹法に、是非とも注目していただきたい。

それにしても、この十二人の陪審員は、よく怒る。初めて顔を合わせる人間の割りには、必要以上に相手への不信感や不満を露にする。しかしながら、時には激しくぶつかり合わなければ、最後まですれ違ったままで終わる。

目の前の人間と真っ向から対峙し己の感情をぶつけたからこそ、十二人の男は最後に「赦し」を見ることができたのだろう。

そう思う。

高橋己詩

講談社 birth で生まれた小説家。現在は無料頒布の猛獣。

Pさんぽ

第4回

Pさん

なので、大工とやかんの外面の光景までがサザエさんで、その中身は中学の部活の差し入れで、その二つが合成されていたということだ。現在に戻って、再び歩き出す。

マンションが建っている。今度は、十五戸×五階建てくらいの規模の、本物のマンションだ。不動産屋さんが「これ、唐突にマンション」とマンションの宣告をするまでもなく、万人にとって等しくマンションである。自分が進学先も就職先も決めずに高校を卒業した頃から建設が始まり、向かいに少し古いが規模を同じくしたマンションがある。向かいのマンションには樹齢50年は越えているものと見える桜の木が、歩道側の敷地内に並んでいる。並木というやつかも知れない、木が並んでいるのだから。その並木とは別に当時は建築予定であった手前のマンションは、栄養の足りていない老婆の腕くらいの太さの桜の木を植える予定であったらしい、それなのにその「桜並木」を大々的に、マンションの売りにしていた。

「春には窓の下に満開の桜が」

「入居者募集中!」

当時建築予定であったマンションの建築予想図が、白い工事用の衝立に描かれていたのだが、そのカメラワークを説明するのは少し時間がかかる。それにしても、なぜこういう宣伝文は、文末を言い切らないのだろうか。「一家に一台、ピクニックのお供に(最適です)」「これであなたも、クラスの人気者に!(なります)」まるで言い切ることをおそれているように尻すぼみになっている。「原材料、コーヒー。以上。」や「デキる男。」などは、その反動としての「言い切り病」にかかっているように見え、どちらにしろ「ふつうの言い切り」を避けているという点では変わらない。このことは青木淳悟から教わった。要するに、古い建物である隣のマンションの並木をうまいことカメラの左端で掬い上げ、中心から右にかけて、堂々と対象マンションを持ってくることによって、あたかもその樹齢50年は越えていると見られる桜並木を、自分のもののように映し、宣伝に使っているし、実際マンションの入居者は他所のマンションの桜を全身に享受することになる、というわけだ。

花小金井で桜茶を飲んだことがあった。(続く)