崩れる通信

「崩れる本棚」創作コンテンツ用のブログです。

崩れる通信 No.3

みなさま、急激に変化する気温に、体調を、“崩され”ては、いませんか? このギャグは、体調が『崩れる』と、団体名の『崩れる』を、掛けている、ギャグですね。とても面白い。ハハ。では本日も、崩れる通信3号をお送りします。

その一、ウサギノヴィッチ先生から、次の書き手の脳髄を射抜く矢文のように開始された、「崩れるリレー小説」、第2回。次の書き手は、Pさん。いくらなんでも崩れ過ぎですね。

続きまして、二作目、これは初ですかね? 連載が二回目となる、秋月千津子先生の『文具語り』。今度はしおりの話です。僕は、常に並行して読む本が多いので、本を買う時についてくるしおりを使わなければ間に合わなく、買ったしおりを使う機会がなかなか作れないのですね。嗚呼。

三作目は、本誌の方の『崩れる』メンバー、徳永みさ先生の『フランティックアレルヤ』。ええと、音楽にまつわるエッセイの、連載です。しかし、只ならぬ雰囲気が。一体、どうなってしまうのか!

四作目は、読まなくても何の差支えもないエッセイ、Pさんの『Pさんぽ』。

以上四作。さあ。楽しめ!

崩れるリレー小説(仮)

第2回

Pさん

カルボナーラ」という物質は、主に炭化水素から構成されるまろやかな水化物で、粗挽き胡椒が75%の確率で振りかけられている、胡椒は嚥下の際唾液腺をすこぶる刺激し、これも75%の確率で歯の間に挟まり、食後ふとしたときに噛み砕くと急に辛くなってむせる。

「ゴホッ、ゴホッ」

「お兄ちゃん、どうしたの?」

それに対して、一言あるいはある程度まとまった語数で返答することは難しい。麦茶を飲む。麦茶はカラフルな菊の花が散りばめられている模様のポットに入っていた、麦茶は「ミネラル麦茶」ではなかった。「ミネラル麦茶クイズ 全体ウルトラC」ザ・TVのクイズには、なので全て答えられなかった。一つだけ惜しかった問題があった。これは二年後の話だ。

翻って胡椒というのはコショウ目コショウ科コショウ属のコショウという植物の実である。味は辛い。太田静行他の著した論文に、はっきり「塩辛さとは違う辛さだ」と明記されていることからも、顕著に判る事柄だ。他の共同執筆者に、古堅あき子、森一雄、日下兵爾氏の名前が連なっており、その全員が、異口同音に「胡椒の辛さは、塩のもつ塩辛さとは違う辛さだ」と断言している。その様子を盗撮したYoutube動画も、検索すると見つかるだろう。いわゆる理科室の、妙に深い流しが何台も整列している。黒いペンキとニスで塗られた実験用のテーブル。胡椒の実を、太田静行氏が代表して、ハンマーでかち割った。この実験は、「ハンマーを真上から振り下ろした場合に、胡椒の実がきっちり四等分できるかどうか」の実験も兼ねていたのだ。結論から言えば、太田氏のハンマー振り下ろし習熟度にも依存するのではあるが、おおよそ75%の確率で、きっちり(語義上は、誤差5%以内の重量差で)四等分にかち割ることが出来ると、この研究から結論づけることが出来た。古堅あき子氏が、その様子を見て胸の中で小さなガッツポーズをするのだが、それを森一雄氏が諫める、まだ実験は終わったわけではない。これからが本番だ。

四等分された胡椒の実を、四人が同時に口にする。ここで動画が(1/2)から(2/2)に移り変わり、ほんの少しの読み込み時間と、ジレットのCMの15秒だけ、続きを待たなければならない。クソッ、五秒経った後に「広告をスキップ」で飛ばせないタイプの広告か。その間中は、髭がどれほどスムースに、かつカミソリ負けなく剃れるのか、筋肉質の中年男性の顎を見つめ続けなければならないのだが、それも15秒間だけのことだ。動画本編の再生がはじまる。万が一動画分割にズレが生じたときのために、(1/2)と(2/2)の境目は、被らせてある。再び森一雄氏が諫めるところから始まった。そして、四等分された胡椒の実を、四人が同時に口にする。

そのあと四人が上げた歓呼の言葉は、改めて繰り返しここに書く必要はないだろう。彼等はそろって大粒の涙を流したために、それぞれの席に比較用に用意しておいた食塩は、もはや必要なかった。胡椒の辛さは、塩の持つ塩辛さとは、似ても似つかない。全員で、理科室のテーブルの間のスペースを利用して、「胡椒の辛さは塩の塩辛さとは違う」ダンスを踊り合った。ひとり、お調子者の日下兵爾氏が、「胡椒の辛さは塩の塩辛さとは違う」ダンスを、アニメーションダンス風にアレンジして、三人のメンバーの目を楽しませた。四人で、ビーカーに入ったチューハイで乾杯した。

その当時の様子を、後年、縁側に座ったあき子が振り返る。

「そんな風にして、仲間と楽しい時間を過ごしたのも、もうずいぶん昔になるかしら。今は、「胡椒の辛さは塩の塩辛さとは違う」ダンスを踊るにも、腰と膝が痛くて痛くて……諦めていたんです。

でも、この「ほっとスムーズ」を毎日飲むようになってから、笑顔の絶えない日々。植木の鉢を、日の当たるところに移す度に、しかめ面をすることは、もうありません。

あ、兵爾さん。今日は、昔の話をするために、わざわざ愛冠から来てくれたんです、この取材のために。兵爾さーん!」

そこでヴィデオが切れた。何のことはない、この全体がわかさ生活の「ほっとスムーズ」の宣伝であったのだ。以後の古堅と日下の会話は「ほっとスムーズ」と全く関係がないため、カットされた……

以上が、僕の隣に住んでいる幼馴染の敦子が床に転がって、まるで切り裂きジャックに服を切り裂かれたかのように服を切り裂かれて寝ているのを見た瞬間に、現実逃避として頭の中に描かれたイメージだった。最近、妹の想像力というのか、妄想力というのか、それが激しすぎて困っているのだが、その影響を大いに受けてしまったのかもしれない。この間だって、妹と二人でリビングにいる時、おせんべを食べつつテレビを見ながら、

阿頼耶識。無没識とも呼ばれる、感覚や感情の皮を全て剥ぎ取ったすえに顕れる、ヒトという種の最奥にある認識。ここに到ってはじめて、個人的自我からの脱却が可能となる。

過去に比しても、感覚や感情のみに拘泥し、その振れ幅だけに汲々とする現代においては、一つ下層に位置する末那識を識る事すら難しくなった。

ヒトが自らの肉を用い、精神を用い、何を信じているのかがバラバラになっている。それを原始に還り、再統合することが必要だ。

それには、十三という数字が必要不可欠となるのだ。その象徴的意味は、総ての主観から距離を取っている、唯一の客観である」

なんてことを、僕がいるのだから僕に向けてだろうが、半ば独り言のように喋っていた。眼は、一応テレビの方を向いているのだが、開きすぎ充血していて無を見ているようだった。たまにこうなる。

今後、あっと膝を叩くような回り道をして、一見無関係な十三星座教団とうちの妹がつながっていた、実は黒幕だった、なんてことは、絶対に起こらないだろう。妹はよくうっかりする所のある普通の女の子だ。そのうっかりぶりは、新書にして出したら十万部売れるレベルなのだが、それよりも現在の僕は、寝ている敦子を起こそうか、起こすまいか、起こした時に、どうせ怒鳴られるのだろうから迷っていたのだが、頭の中の場面で妹は、まだ続けた。

「今生の生物種としてのヒトを総て救うのでは、まだ足りない。視覚に顕れる、明文化された智だけでは、本当の智に達することは出来ない。今は地の底にいる、幾多の存在の声に耳をすませること、もはや風のみになって逆巻いている、かつての生者たちの叫びを、肌に感じること。

あらゆる言葉と意味を欠いた空間において、存在だけを使って知覚するのは至難の術だ。しかし、どんな手を使ってでも実現せねばならない。予期せぬ死に曝され、そのまま生を中断したもの達の声のさざめきを聞き取ること。

そんなこと、わたしなんかに出来るのかなあ、お兄ちゃん?」

(続く)

文具語り

第2回

秋月千津子

最近、どんな本を読みましたか?

創作をする人ならば、そんなことを挨拶代わりに話題にすることも多いだろう。書くことと読むことは密接につながっていて、どんな本を読んできたのかはどんな物語を紡ぐのかということと、ほとんどイコールに近く結ばれていると私は思う。

今日はそんな読書のお供の文房具、「しおり」について語っていこう。

しおりの歴史は古く、平安時代には「夾算」と呼ばれる、竹を薄く削って作られた道具が存在している。これは儀式で使う文書の訂正個所を示すために挟む道具で、『枕草子』にはこの道具を現在のしおりのように、今どこを読んでいるか示すために挟んでおく描写が出てくる。

書物が巻物から冊子となり、印刷や製本の技術の発達と共に変化をしていったように、現在ではしおりの形や素材も様々だ。単に「本に挟む」だけではない、便利なしおりが多数生まれているので、紹介していこう。

まずは、もはや「挟む」作業が不要なしおり『ページキーパー』だ。表紙に挟むためのクリップに細いワイヤーがついており、開いたページにワイヤーの先端が常に挟まれるようになっている。セットさえしておけば、読んでいる途中でそのまま本を閉じてもしっかりとマークがされているのだ。同じ原理を使ったもので、プラスチック製の『スワンタッチ』は1枚162円とお値段も安く使いやすい。こちらは固定する部分が貼ってはがせるタイプのテープになっているので、繰り返し使うと粘着力が弱まってしまうという弱点はあるが、安いのでその時はまた買えば良いだろう。

原理は違うがその都度挟まなくて良いという点で共通しているのは『アルバトロス』。本を閉じる動きを利用して挟むしおりで、広げている時には本にかかる部分がないため邪魔にならないのが良いところだ。こちらは1枚辺りの値段は200円程度とけして高くはないのだが、6枚セットでの販売しかされていないのが残念なところだ。

読んでいる場所の目印以外の機能を併せ持つしおりもある。『mark-my-time』はタイマーの付いたしおりだ。しおりとタイマーは別で良いんじゃないかと言いたくなるところだが、機能を見てみると案外便利そうなアイテムだ。読み始めてからの時間を計測するカウントアップ機能と、指定した時間になると知らせてくれるカウントダウン機能が付いていて、二つの機能は並行して使うことができる。カウントアップ機能を使えば、一冊を読み終わるのにかかった時間を知るのにも便利だし、今週は何時間読書をしたのか等を知ることもできる。アメリカ製だけあって、サイズがちょっと大きすぎるのでは……という気がしないでもない。

単に挟んで目印にするためだけのしおりでも、今は凝ったデザインや面白い素材のものが多数ある。本の上に動物がいるように見えるしおりだとか、サリーの生地を使ったしおりだとか。読書の楽しみを増やしてくれる自分にぴったりのしおりを是非探してみてほしい。

最後にこの世に生まれなかった(多分)しおりの話をしよう。『note&mark』という先端にふせんの束が付いたしおりが作られようとしたことがある。海外のクラウドファウンディングで呼びかけられたようだけれど、サイトを見る限りどうやら資金は目標の5%程度しか集まらずに終わったようである。実は秋月はこれとまったく同じものを思い付き、企業さんに提案するかクラウドファンディングとかでお金集めて作れないかと思ったことがあるが、実行しなくて正解だった。ふせんはしおりにもなるのだから、商品化されなかったのは当然である……。

【今回紹介したしおり】

◇ページキーパー http://www.amazon.co.jp/dp/B00MXL29TO

◇スワンタッチ http://www.itabashi-life.com/backnumber/person13/index.php

◇アルバトロス http://www.amazon.co.jp/dp/B00AM0J0LI

◇mark-my-time http://www.amazon.co.jp/dp/B00Q0SE57U

◇動物がいるように見えるしおり

http://www.yomupara.com/item/bookmark/metalbar_bm.php

https://www.momastore.jp/momastore/products/detail/product_id/38196/

http://db-shop.jp/products/detail.php?product_id=183

◇サリー生地のしおり http://item.rakuten.co.jp/craftlink/11aw016/

◇note&mark https://www.indiegogo.com/projects/note-mark-bookmark#/story

秋月千津子

個人サークル「深海の記憶」で活動中のインディーズ小説家。

Twitter:@akizuki_chizuko

【イベント参加予定】

10/10 第2回テキストレボリューションズ

11/23 文学フリマ東京

フランティックアレルヤ

Frantic Alleluia 第1回

徳永みさ

これから、「私」の話をします。

「ここ」を生きている、「この私」の話です。

私が思っている以上に、この文章は支離滅裂かもしれません。

ですが、公開する文章、また作品として、出来る限りの力で書き上げました。

言葉に最大限の敬意を払いながら、「貴方」に伝わるよう、書きました。

どうか、読んで欲しいです。

言葉に嘘を吐きたくない。本当の言葉を探していたい。本当の言葉とは、何だろう。その「本当」を探したい。どうして言葉を書くのか。どうして言葉を求めるのか。どうして言葉を使うのか。どうして生きているのか。どうして死ねないのか。死にたくても死ねないというだけじゃない。どうして私は生きてるの。どうして私は生きるのをやめられないの。繰り返し問うた言葉。今も問い続けている。ここにいるのが苦しかった。苦しくて苦しくてたまらなくて、なのにやめられなかった。

もうつらいのは、終わりだよ。

苦しいのも痛いのも、もうおしまい。

音楽が好きだった。自分にとって音楽とは呼吸や食事のようなものだ。専門家のように詳しいわけではない。そのメカニズムや詳細を知らずともそれらは出来る。いつも音楽があった。音楽の向こうとここにいつも私ではない誰かが居て、ここにはない何かがあった。

音楽を聴きながらいつも誰かや何かを思い出す。ここで聴きながらこう書きながら、私は涙を堪えている。どうして涙が出るのだろう。少しわかる。ここに居ない貴方を想うから。もう会うことのない貴方たちを思い出すから。二度と訪れることのない、あの時を思うから。言葉にし難い切なさが、私の涙を溢れさせる。

(歌はいいねえ、と「彼」は言った。「文化の極み」であると。そのとおりだと、私も思う。)

言葉に嘘を吐きたくない。こうして書くものに何故エッセーを選んだのか。私は過去に何度か小説を書いたことがある。しかし、私の小説は言葉と向き合いきれていないような気がした。どこか誠実さに欠けるような、何か大事なものが欠損しているような。そのような感覚も上手く言葉に出来ずにいるが、とにかく、言葉に真っ直ぐ向かえず、正直でいられないくらいなら、私は言葉を扱いたくない。それならば、もっと自由な形式で自分自身を言葉に変換できる、表現できるものをと考えたときに、辿り着いたのがエッセーだった。

本当の気持ちは言葉に出来ないね。だけどやめられない。だから探してる。

いつも音楽を聴いていた。どんな時も音楽があった。子供の頃から歌詞の意味を考えながら歌を聴くのがとても好きだった。私の両親も音楽が好きだった。寂しくなると音楽を聴いた。そのときの私は寂しいと感じてはいなかったけれど、音楽を聴きながらよく涙を流していた。歌で歌詞として使われる言葉に込められた思いや意味を考えながら歌を聴いた。どんなにつらい時にも音楽があった。大人になって、誰かが好きだと言った音楽を聴くようになった。友人や恋人、憧れている人、どうしてその人はその音楽が好きなのだろうと考えながら聴いた。どんな気持ちでこの音楽を聴いて、どんな気持ちで生きているのだろうと、もう会うことのない今も、その人たちのことを思う。

「貴方」がどこで何をしていても、いつも幸福を願ってる。いつも貴方が私にそうしてくれていたように。

(してもらったこと、いつか、世界へ返していくのよ。)

いつも言葉を書いていた。つらくてたまらないから、言葉を書いていた。嬉しくて居ても立っても居られないから、言葉を書いていた。抱えきれない不安や怒りや憂鬱をどうにかしたくて、言葉を書いていた。この世界には何もないように思えて、「ここには何もない」と言葉を書いていた。

ある時、言葉を書くのをやめようと思った。生きるのもやめようと思った。空っぽだと思った。何が空っぽなのか自分でもわからなかった。「空っぽ」と私は書いた。けれどやめられなかった。生きるのも言葉にするのも。また生きた。生きて、言葉にした。またやめようと思った。全部やめたかった。けれど、まだ生きていた。何一つ諦められなかった。

もうあとは生きるしかない。言葉はまだ残されている。

言葉がまだ残っている。

ここを生きている。ここで言葉を紡いでいる。この世界の全ては過ぎ去っていく。何をしても何もしなくても、何を感じても何も感じなくても、全て終わっていく。それならば、あと私に残されていることは。

ここの音を聴いている。ここで言葉に触れている。

ここに、神を見る。ここで、神を知る。音楽の中の言葉に、神が坐すのだ。

それが、私の神様。

神を探している。神を降ろすに値する私の言葉をここで探している。その神の言葉は、本当の言葉は、全てを超えていけると私は信じている。本当の言葉は、いつか生すら超えていくのだ。そんな言葉は必ずある。この、苦しみと呼ぶ生を上書きし生み直すような言葉が、絶対に。

ここではないどこかで、「今ここに居ない貴方」と出会い直し繋がる為の言葉を、これから私の全てを懸けて探していく。

ねえ、だから、そこで待っていて。

私にとって生きることは歌うこと、生はここの音に乗り、満ちる言葉は歌になり、ここの音楽。

Pさんぽ

第5回

Pさん

「言いさしてやめ」の法則を、精神病者の秘孔を衝くように言い当てたのはその当の罹患者であるシュレーバーだった、たしか。何かを言い切るのと、ゴニョゴニョと聞こえるか聞こえないかで言い続けているのとでは、言うという行為の双方の影響者に影響を与える。持って回った言い方をしなければ、言葉の内容に関わらず、内容よりも重要な何かを伝えることになる。

しかしそのことを「カン」で発見したのは、それを静かに観測する者ではなく、精神の力という力に蹂躙され尽くした、渦中と言って言い過ぎではないその当事者だった。

広告もまず「言い切るか言い切らないか」がその内容に関わらず、読む者に伝わる内容となる。節くれ立った根がアスファルトをこじ開けている桜とおとなしく直立した桜の向き合った道から一つ離れた道をそのときは歩いていた。自転車置き場と、さらに歩道側にアジサイが植えられていた。カエルとかツタ植物みたいに昨日台風が通り過ぎたからといってアジサイはその咲きぶりに影響を受けることはなく、梅雨の時季の盛りを過ぎた、白い萼? 萼かあれは? 萼だけをのさばらせてふつうに生えていた。自転車は三十七台停められていて、一つだけ鍵を抜き忘れたものがあった。車道がこのマンションに正面からぶつかって左にカーブする形で通っているので、事故多発地帯であるらしくここを通ると半々の確率で警官が張り込みをしている。張り込みというのかどうかはわからない。警官の乗り回す自転車には警棒を入れるための透明なプラスチックの筒があり、荷台に白く扁平な箱が常についている。その中に何を入れるのかは、法律で決まっていたりするのだろうか。その日は警官はいなかった。警官がそこにいた場合には、カーブの内側の角のところという、必ず定位置に自転車の傍に立っている。一度だけピザ屋のオートバイを引き留めているところをここで見かけた。彼が配達中だったのであればなんという災難だろう。帰りだとしても災難には変わりない。アジサイの方からマンションを見て左側にクリーニング屋と、隣に自動販売機がある。その自動販売機には「シュウェップス」と「ウェルチ」が売っていた。精神的にガチガチに追い詰められているときに「シュウェップス」の方を買って飲んだことがあったので覚えている。まだその場所までは歩いておらず、心の中で眺めているだけだ。それも、そのとき眺めたわけではなく、今眺めている。(続く)