崩れる通信

「崩れる本棚」創作コンテンツ用のブログです。

崩れる通信 No.5

近況報告のコーナー

昨日、当通信に寄稿してもらっているそにっくなーす氏、ウサギ氏等と、花火をやりました。仲間内で、「◯◯馬鹿騒ぎ」と称する会合を、不定期に催していて、今回はその「花火馬鹿騒ぎ」編でした。

良い大人が、「アリ死ね」といって、アリに集中砲火したり、それでもアリが寄ってくるもんだから、「アリは集団自殺がしたい」という設定のもと、アリの発言をアテレコしたり、やっぱりいろんな意味で、崩れている連中の集まりなのだなあと、実感しました。

まあ、「アリ死ね」といって、アリに花火を集中砲火した人間は、僕なんですけどね。

それと、「テキスト・レボリューションズ 第2回」で配布する『崩れる本棚 No.3.5』の原稿を脱稿しました。

お楽しみに。


さて、土曜です、『崩れる通信』の時間です。

毎度おなじみリレー小説、今回は、本誌 No.2 より沈黙を守っていた、崩れる本棚技術部部長、Rain坊氏!

ウサギ氏の、ベタベタなエンタメ的振りに見事に応えた、エンタメ書き手ならではの手腕です。

エッセイ一作目は、クロフネⅢ世氏の、「路上観察のすすめ」。文学フリマでは古参の部類に入る氏の、多趣味ななかでも「コレ」というものを選んで頂き、「路上観察」に決定いたしました。

読み応え、というか、見応え、バツグン。

ちなみに、クロフネさんは、「Ⅲ世」の部分を、アラビア数字の「3」にしたり、漢数字の「三」にしたり、特に決まっていないと、おっしゃっていましたが、それを良いことに、勝手に決めてしまえば、ローマ数字の「Ⅲ」を、わたくしは推したいと思います。推しナンバー。

二作目は、同じく文学フリマの古参サークル、「メルキド出版」の小五郎氏が、「哲学」についてエッセイする、「白い教室」。

哲学、について確かに語っているのであるが、「サイコパス」「高橋みなみ」などの単語がホイと出てきて、かなりゴチャ混ぜ感があります。「ビックロ」並。

そして最後に、最後のやつ。

以上四作。

ふと窓外に耳をやれば、何ゼミかわからないセミが、不思議なテンションでシワシワシワと鳴いている。夏は永遠に終わらない。読め。楽しめ。

崩れるリレー小説(仮)

第4回

Rain坊

「あんたは一体誰なんだ?」

その言葉に敦子ならば決して見せないであろう薄気味悪い笑顔を、まさにお面を被っているかのような表面的な笑顔を目の前の奴は浮かべた。

「何を言っているの? 私よ、敦子よ」

「お前は敦子じゃない」

僕は改めて、敵意をもってそう言った。

「……よく私が敦子さんではないとわかったね」

「お前のような薄気味悪い表情の奴がいるものか」

僕は一度見たものは決して忘れることがない。いわゆる、カメラアイや瞬間記憶能力と呼ばれるものだ。だからつい記憶している事柄を聞かれると口から出てしまうのだ。知っている、覚えているから。そして、些細な違いを違和感として見出すことができるのだ。

「よくできているとおもうんだけどな」

と偽敦子は首元に手をやると敦子だった顔が引き剥がされていき、その下には新たに人間の顔とは言い難いほどぐにゃぐにゃのお面が現われた。偽敦子はベッドのシーツをマントのように羽織ると、手には小さな、メスのような小型の刃物が握られていた。

「お前、平成の切裂き魔か」

「鋭いな、君。でもどっちかって言うと今は切裂かれ魔、ジャック・ザ・ストリッパーって感じかな、今の今まで裸同然だったし。自分で服を切り裂いたから自業自得ではあるんだけどね。まあ、とにかくご名答。その通りだよ、少年」

「馬鹿にしているのか」

「いやいや、とんでもない。感心しているんだよ。変装は切裂くことに次いで僕の得意分野でね、警察の捜査だってかく乱できる腕前だと自負していたのだが、いやはやさすがといったところかな」

確固とした目撃情報がなかったのはそのためか。つまり、こいつは先ほど敦子に化けていたみたいに犯行を行うたび姿形を変えていたのだ。

「敦子をどこにやった」

「安心しなよ。とある場所で眠ってもらってる。彼女の身の安全は僕が保証する」

「切裂き魔が何を言うんだ」

「犯罪者にだってプライドっていうのはあるんだぜ」

あってないようなものだけどね、と平成の切裂き魔は嘯く。

終止ふざけた態度を取っている切裂き魔ではあるが、刃物の切っ先は僕の方を常に向いていた。それだけでもこいつがただのお調子者ではないと思わせるのに十分だった。切裂き魔はいつでも僕を殺せるのだ。そう考えると身震いが起きる。しかし、ここで引くわけにはいかなかった。切裂き魔が敦子の運命を握っているのだから。彼女を救いだすまでは怯むわけにはいかない。

「そうそう。どうして僕がここにいるのか言い忘れていたね。実は君に頼みがあるんだ」

「何だと?」

「天馬榛木。この名は知ってる?」

僕は新聞でその名を見かけたばかりだと答えた。

「そうかい。十三星座教団の教祖。彼の殺害が僕の最大の目的だ。だけどそれには協力者がどうしても必要不可欠なわけ。強力な協力者が。あっ、なんか語呂がいいな、これ。まあ、それはいいんだけど。さすがにここまで膨れ上がった団体の教祖ともなると企業家や政治家、警察の後ろ盾があってねえ。なかなか彼の尻尾がつかめないんだわ、これがまた。だからとりあえず十三星座教団の信徒だったり、天馬榛木に占ってもらった人を対象に切裂いて彼が動くのを待ってみたりもしたけどイマイチでねえ。そこで君に手伝って欲しいんだ。つまり――」

平成の切裂き魔は刃物をくるりと回し、柄の方を僕に向けると、

「君の父親を殺す手伝いをしてくれないか?」

そう言ったのだった。

(続く)

Rain坊

風来坊。

路上観察のすすめ

第1回

クロフネ

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路上は私を飽きさせない。路上を歩くという行為は、それだけで最高のエンターテイメントだ。路上は私にとって、至福の空間とも言える。

冒頭から大袈裟に何を書いているのだろうと感じている人も多いかもしれない。しかし、上記の文章は個人的には何も大げさでなく本気で抱いている感覚を表現したそれになる。それほど、路上という空間は次から次へと筆者に刺激を送り込んでくる。

冒頭に提示した何枚かの写真をご覧いただきたい。これは、まさに路上で見かけた光景を筆者が写真に収めたものだ。特別に仕立てられた空間を収めたわけでなく、何気なく路上を歩いていた一瞬に出会った風景である。恐らく、多くの読者の方々も何気なくこのような空間の横を通り過ぎていると思われる。しかし、あまりにも何気なさ過ぎて多くの方々が何も感じずに過ぎ去っていっているのだろう。

この何も意識せずにすぎ去りそうな光景をあえて意識して観察するのが、『路上観察』である。筆者は、いつの頃からか路上で見られるこのような何気ないようで少し奇異な光景に着目するようになっていた。

今和次郎が始めた考現学を期限とする路上観察。都市部に住む現代人の風習や行動、果ては食堂の欠けた茶碗のヒビの入り方、特定の区画における野良イヌたちの身体の模様までを観察して記録したこの考現学を起源とし、1986年には赤瀬川源平を中心とした路上観察学会が誕生した。路上観察の詳細は、彼らの功績の方が雄弁に語っているのでそちらを参照していただきたい。筆者があれこれ語るよりも彼らが出した書籍をあたる方がより効率的で確実である。

では、筆者はこのエッセイを通し路上観察から何を語ろうとしているのだろうか。

恐らくは、この文章を読んでいる多くの方が創作に勤しんでいるタイプだと思われる。だからこそ、筆者はその読者層に向けた視点の路上観察を勧めたいのだ。

このエッセイでは筆者の脳内奥から覗いて見えてきた路上とはどのような空間かを皆にじっくりと解説し、実際に路上に出て更にはその先に広がる世界へと誘っていきたい。路上観察とは何か、路上観察から現代の何が浮き出してくるのか、そんな大そうな学問めいた解釈をする気はない。もっと頭を柔らかくし、路上を眺め、路上が放つ違和感から刺激を受け取り、果ては個々人が持つイマジネーション力を引き出し、そのまま創造(想像)の世界へと旅立つエスコートができればと考えている。いわば、筆者は路上のツアーコンダクターだ。

ちょっとの間、付き合っていただきたい。きっと、路上が持つ秘めた世界にはまるに違いない。あなたも、これを読めば路上からここではないどこかへと旅立つことができるようになるであろう。

ところで、実際に路上観察している人たちは路上の何に反応しているのだろうか。

その種類は多種多様であり、大雑把に表現してしまえば「何にでも反応できる」となってしまう。例えば、分かり易いところで言えば、冒頭の写真のようなトマソンである。他に分かり易いところだと、マンホールの蓋や暗渠、旧町名を示した表記類など。また、変わったところを紹介すれば、電柱にくくりつけられているネコよけのペットボトルや外蛇口など、なぜそれに反応したのだろうかと不思議に思えるものばかりを写真に収めている人もいる。しかし、なぜと考えてはいけない。路上で見られるすべての事象が観察の対象になるのだから。路上創造の世界への入り口は、その陰に隠れているものである。

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筆者の場合、最近では上記のようなどこに続いているのか分からないような階段に興奮を覚えてならないものだ。この手の階段を見つけては写真に収めている。

そう、筆者だけの視点説明になってしまうのだが、この階段に何を感じているかとなると、『不確かさ』に他ならない。行き先が明確で、例えば階段の上に民家が見えているようであるならば魅力が失せる。また、写真のような異常に急な角度というのもポイントが高い。その『違和感』に想像力を働かせ脳内に刺激が満ちているのだろう。だからこそ、このような路上に惹かれているのである。

特定の条件を満たした状況でこの階段を駆け上がれば、別世界へと飛び立つことができ、そこには現実の世界とは似て非なるパラレルワールドが広がり……などと、空想世界が瞬時に頭の中で広がってくるではないか。本来階段が持っていただろう文脈、それが失せることにより新しく表れた観察者が意味を想像により上書きしていく。そして、新しい世界が創造される。あっという間に、古びた景色に新鮮さが宿るのだ。だからこそ、路上観察はやめられないのである。

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しかし、このような光景は都市部ならではの特徴であり、そこから外れた地方では見られないのではないか。地方民に路上からアップデートされた世界を創造しろというのは酷だ。そのような疑問や不満を持つ人もいるかもしれない。

しかし、それは大きな間違いだ。

路上観察は都市部でも地方でもできる。

その証拠が、上記に新しく示した写真である。

これは、富山と滋賀で見られた光景である。

富山に至っては、岩瀬という富山駅から離れた場所にある街で見かけた光景だ。別にトマソンでもなんでもない民家の写真なのだが、どことなく顔に見えてきて無視できなかったので写真に収めてきた。このような光景もまた、路上観察の対象になるのである。

地方もまた、路上観察対象の宝庫でもあるし、地方ならではのお宝はそこら中に転がっている。ご理解いただきたい。

路上を歩き、見つめれば、そこには別世界が潜んでいるのに気づくだろう。

日常に溢れた何気ない事象をじっくりと何度も見つめていれば、その先に思わぬ空間が広がってくることが分かるはずだ。人はその想像力と創造力を頭の中に抱えている生き物である。

難しいことではない。なんでもないと無視するのではなく、何かあるのではという好奇心を全開にして見つめていれば、おのずと世界は広がる。

次回以降、もう少し具体的に路上を観察して世界を開いていこう。

お付き合い願いたい。

次回へ続く。

クロフネⅢ世

企画型サークル『男一匹元気が出るディスコ』。

無茶振りありきの創作。普通じゃない作品を求めるならOGDヘ。

webサイト:K.K.Theater

白い教室 ~落第生のはらわた~

第1回

小五郎

これは、世界の哲学者たちの核心を突く言葉を軸に、わたくしの実体験を踏まえ、取り留めなく考えを巡らしてゆく馬鹿丸出しのおとぼけ講義である……

今回は、フランスの行動する哲学者として有名なジャン=ポール・サルトル(1905~1980)の一文「実存は本質に先立つ」から考えたい。

まずは、ネットに頼らずに徒手空拳で用語について説明してみよう。

「実存」とは、なんだろう。カフカの小説群を実存主義小説と捉える向きもある。

反抗や不条理なんていうカミュっぽいフレーズも該当するのだろうか。

個人の生命を特別な存在と認め、その個人的経験はいくら過酷でも絶対的に受容せざるを得ないことを意味する。

一方、「本質」は、自力だけでは心許ないのでNHKの『ケンブリッジ白熱教室』(FBIvsフランス哲学)のメモを参照させてもらうと、親密な絆、家族的な類似性、感情移入などが挙げられようか。

それにしても、なぜかこのメモ、「実存」に関する記述が少ない。

気を取り直して、引き続き引用すると、「本質」は、親密な関係の過大評価とも考えられる。

さらには、「実存」をすべてのひとにとっての意味のない、なにもおきない「生きる」概念と捉え、「本質」は目的論的な「物語」概念だとも捉えられる。

参照しているノートの走り書きを拾い読みしてゆくと、「カミュ 統一? 分解○」ともあった。

カミュといえば、サルトルの盟友というか仇敵というか一筋縄にはいかない関係性だ。

でも両者とも「本質」より「実存」側なのは確かだろう。

この実存と本質について考えると、4年前のある光景が浮かんでくる。

それは東日本大震災が起きておよそ2カ月後の東京は御茶ノ水エクセルシオールで、わたくしと兄、そしてmixiで知り合ったとある友人の3人が店内の座席で寛いでいる光景だ。

3人それぞれケーキを注文し、コーヒーや紅茶で和気藹藹と歓談していたら、なんのきっかけだったかは忘れたけど、自殺についての話題となった。

わたくしは、自殺企図の当事者としての観点から、自殺を実行するひとたちを擁護した。

彼らには彼らの誰にも批判できない生死の決断があり、自殺することは決して容易なことではなく、自殺者の選択は相当に濃縮された命の輝きであるとした考えを根底に、自殺者を認める発言をしたのだ。

それに対し、兄が反論した。

自殺者は救済するべきだ、と。

ここに「実存」と「本質」の典型がみられるはずだ。

わたくしの「実存」と、兄の「本質」。

自殺は、戦死でも病死でも事故死でも災害死でも早世でも当てはまるだろう。

さて、話をくるりと変えて、坂口安吾の「文学のふるさと」を取り上げてみよう。

ここには、

「むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。」

(『堕落論新潮文庫 P35)

さらに、R.D.レインの『ひき裂かれた自己』から引用する。

精神分裂病質者というのは、(略)他者と<ともに>ある存在として生きることができないし、世界のなかで<くつろぐ>こともできない」

みすず書房 P14)

それから、いま流行りの『火花』では、「漫才はすべてを肯定する」というような台詞があるようである。

これらを、統一もしくは分解してみて、思考するなら、やはりサルトルの言う通り、「実存」があってこその人間であり、「実存」よりさきに「本質」がしゃしゃり出ると、それこそ伊藤計劃の『ハーモニー』や虚淵玄の『サイコパス』みたいな、管理社会になってしまう。

いや、そのまえに「実存」が消えることは人間が人間である限り有り得ないのでないか。

また、極論の安吾のような「実存」だけで、「本質」を徹底的無視したとしても、人間である限り、「本質」も消えることはない。

「実存」によりひとりの人間の命が犠牲になったのならば、「本質」は自然に訪れる。

それは時間であったり、歴史であったり、するかもしれないが、それも人間、いや生命そのものの「本質」を「実存」で逆照射する光なのだ。

実存は実存の実存による実存のための救済によってのみ、本質的に解決される。

人間以外の生命や物質にも実存もあれば、本質もあるのだ。

存在は実存であり、本質と表裏一体なのだ。

実存と本質とは対立するものではない。

高橋みなみの言葉を借りれば、実存と本質とは「矛盾と戦うこと」なのだ。

(了)

小五郎

今年で12年目のメルキド出版のルナティックな弟のほう

twitter:@ngz55

blog:小五郎の日記

Pさんぽ

第7回

Pさん

檜の並木の側に並んでいる分譲住宅はその枯れ葉が被害と言っていいほど降り注いでくるだろう。夜には目を癒す暖色系の玄関灯が、ろうそくの火のようにぼんやりと灯る。一世代前なら表札のすぐ側に、視線と同じか高いところからのライティングが効果的と噂されていたが、現在はあえて下からのライティングが意外性を演出する。トップダウンからボトムアップへ。主婦のご趣味のプランターに、光量差はないものの、そのぶんよりくっきりと感じられる影が落ちる。プランター内は全部枯れている。ご主婦は他の趣味に子育てにと忙しいのだろう。昨日の台風の雨で、かろうじて生き残っている植物種がほんの少しだけ生気を取り戻した。植物は生かすことより殺すことの方が難しいのではないか。刈り取られる庭園の植え込みなどを見ているとそう思う。たった一ヶ月の間に、まっすぐ直方体に刈り揃えたツツジがボサボサになっている。青臭い断末魔の臭気を発しながら合法チェーンソーを振り回す痩せた庭師に再び刈り揃えられる。どちらにしろ、植物をちょうどよい状態に維持するというのが難しいということなのだろう。植物は過剰に繁茂するか、すべて枯れ果てる。庭師はビロビロによれた赤いTシャツを着ている。チェーンソーで刈り込んでいる間もラジオを聴いていたいほどのラジオ好きなのだがチェーンソーのエンジン音で全く聞こえてこないのでその間だけはラジオを聴いていない。難聴気味なのでラジカセを常に爆音にしていて近所の人はそこそこ迷惑に思っているけれども苦情を出すまでではない。庭師はラジオは午睡のお供と極めている。そもそも近所の庭を割安で手入れして回っているのでご近所はそこまで強く言うことが出来ない。

分譲住宅と「イオン まいばすけっと」との間に、マンション駐車場に至るスロープが降りていて、その先に行ったことはない。(続く)