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崩れる通信

「崩れる本棚」創作コンテンツ用のブログです。

崩れる通信 No.9

崩れる通信をご覧の皆様、どうもこんばんは。特に、テキスト・レボリューションズ2に参加された皆様方、お疲れ様でした。

紙袋の中をパンパンに張らせて、山のようなテキストにこれから立ち向かおうという時に、そこにさらにテキストを上載せすることにいささか抵抗がないわけではないですが、それでも、ほんの少し、時間を割いて読んで行ってほしい。

ここで書いている人達は、みな本気であるから。

一作目、クロフネⅢ世氏の「路上観察のすすめ」第2回。路上観察を一体どのように楽しめばよいのか、個人レクチャーが受けられます。

二作目、メルキド出版、小五郎氏の「白い教室 ~落第生のはらわた~」第2回。ブランショから伊藤計劃小林秀雄を経由し、中原昌也に至るまでのラインを鮮明に描出して見せる論述。……なんというチョイス、いつ見てもその唐突さに感心します。

そして最後に、Pさんの「Pさんぽ」第11回。……いつもの「読まなくてもいい」ギャグは? いや、読んで下さい。なぜなら、今日はテキスト・レボリューションズ2だったからです。

そして、そこで配布した、「崩れる本棚 No.3.5」内の小説、「ベストセット・ヒラーの法則」と、一部の内容に連関があるからです。

どんな連関をそこに見出すかは、読む人に任せます。

以上、三作。

リレー小説の書き手、募集中!

路上観察のすすめ

第2回

クロフネⅢ世

前回は路上観察のさわりのさわりに触れてみた。簡単に説明すれば、何気ない光景というものは、そこへ想像一つ加えるだけでグッとその世界を変化させていく、ということをふれていた。普段見かけるよくある光景でも、詳細をじっと見つめその僅かな違いに想像力を練り込んでいくと、一瞬にして世界が広がっていく、という話だ。その想像力が、創作につながっていくというわけだ。だからこそ、このお題を選んだわけであり、行きつく先は『路上創作』である。路上創作と言っても、もちろん路上で創作を始めるわけでなく、路上で見かけた光景を利用して創作しようという話だ。

しかし、まだまだ路上観察がどのようなものか把握していない読者の方が殆どであろう。

今回は、もう少し詳しく路上観察で何を見るべきかに触れていこう。更には、その光景のどの部分が創造をかきたてるのか、そこにも簡単にだが触れていきたい。

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上記の写真をご覧いただきたい。壁に扉があるが、そこへたどり着くための階段がない。中からあければいきなり空中へ放り出される格好だ。これは分かり易い例である。『高所扉』と呼ばれ、いわゆる『トマソン』に分類される。

トマソンを簡単に説明すれば、無用の長物。大抵は何かしらの建造物に属していた一部であり、高所扉のように一緒に付随していた何か(高所扉の場合は階段)が欠落することにより本来の意味・機能を失ってしまった状態にあるモノである。本来の機能を失ったがために、そこにある意味自体がなくなっているのにもかかわらず、そのまま放置されている状態。しかし、その無用性にあえて芸術性を見出すのがトマソンである。

とはいえ、芸術性などと大袈裟に感じる必要もなく、トマソンが見出す違和感に何となくときめきを覚えていればそれでいい。そう、創作の視点から見れば、重要なのは芸術性や社会的意味ではなくそこにある違和感、そして、その奥に潜む空想性と想像(妄想)の世界なのだから。少し分かりづらいかもしれないが、ようするに、「この扉って、開けたら別の世界に通じているんじゃない?」「特定の条件を満たせばこの扉に入れるようになり、その先には重要なアイテムが隠されているんだ」などとありもしない設定を頭の中に展開させられるかが重要であるのだ。

ありえない場所にありえない何か、という違和感から、頭を回転させてほしい。何気ない場所に潜む違和感を物語に組み込んでいくとなると、どうなっていくか。

それでは、いかにして妄想を展開すればいいか、クロフネの脳内を利用して実例を紹介していこう。ちなみに、この写真の撮影場所は神田駅から10分弱にある。

例1

ポイントは、以下になる。

・扉が高い位置にある(通常では行きつけない位置)

・古びた家屋

・よく見れば、扉を開けてもそこは壁?

これらの要素から、妄想を拡げていこう。

高所という位置関係から、もちろん普通の人間であるならばたどり着けない。しかも、開いても壁となると、もはやそこに達する意味はない。しかし、そこを利用する存在がいるとなると。特定の扉を開け、壁を通り抜けるものが存在する。扉はどこかとどこかを隔てる。壁はそこへの入り口と出口。出入りする者を選別する装置。扉と壁というセットそのものが転送装置の意味を成している。そこを通り抜ける者は人ではない存在であり、『壁を通り抜ける者』と呼ばれる。壁を通り抜ける者は、人と街を観察し、徐々に日本人の日常へと侵食していく……。そのための拠点が、神田駅という日常にふさわしい土地の中に何気なく組み込まれている……。

いかがであろう。つまり、トマソンそのものを別の意味へと変換して無機能性を機能性ある存在へと変換する作業がここでは求められているのだ。そうすることで、妄想は拡がりそこから物語が展開する。日常と非日常のはざまという要素もポイントになってくる。

トマソンに関して、もう少し違う例を見ていこう。

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一見すると何気ない階段写真に見えるが、よく見ればそうでない。

ここは住宅の玄関先にある階段。通りから帰宅した住人がここを通り家の扉へと向かうはず……なのだが、様子がおかしい。

そう、庭先へ通じる扉が草で完全に覆われているように見える。実際、筆者も気になって後ろ側まで回ったのだが、残念ながら全体的に緑で覆われていて人が通れるスペースが見当たらなかった。

もしかしたら、よく見れば草ごと扉が開くのかもしれないが、それにしても覆われすぎじゃないだろうか。それで、こういう時こそ想像力の登場である。

例2

ポイントは

・草で覆われた扉(先へ進めない)

・その先は一見普通の住宅

・植物

普通に入ろうとすれば、その覆われた緑に阻まれて先に進むことができない。しかし、もしその者が先に賢者に会い特定のアイテムを手に入れてさえすれば、その緑は自ら道を開け侵入者を中へいざなうだろう。もしくは、炎を操れる者であれば、その能力を解き放ち、道を切り開ける。

もしくは、植物そのものが家主という設定を妄想しても面白い展開になりそうだ。扉に覆いかぶさった植物はその住宅の住人であり、人間そのものが訪れる方が異常な光景と捉えられる世界。

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植物という話が出たが、上記の写真をご覧いただきたい。

また豪快な植物ハウスである。

これこそ、植物が家主という妄想を掻き立てられる一枚ではないだろうか。

人間のための住家ではなく、植物が支配する棲家である。梅雨の時期になると急成長し、家の規模が尋常じゃなく膨れ上がるに違いない。その代りに、冬になると犬小屋かと見まがうほどにしぼんでいる。それが植物ハウスなのだ。

植物ハウスというジャンルが路上観察分野にあるかどうかは怪しいところだが、筆者が路上観察をしていて既にこのような家は何度も見かけている。これもまた、路上観察の一つに数えても遜色ないだろう。

植物が家を飲み込む違和感が、また観察者の想像力を激しく揺さぶってくるのだ。もちろん、夏の日差しよけ程度の蔦では物足りない。まさに、「飲み込まれた」状態だからこそ目を惹く光景になる。

いかがであろうか。今回は三つほど例にとり路上観察と創作を結び付けて紹介してみた。

これはほんの一例であり、もちろん想像力は人によってさまざまだ。だからこそ、皆も路上で見つけた光景に想像力を付け加えて物語を一つ成り立たせてほしい。

次回以降は、更に別の路上観察ポイントを紹介する。

もしかしたら、具体的な場所に出向いて実際に観察できた光景を紹介するかもしれない。

クロフネⅢ世

企画型サークル『男一匹元気が出るディスコ』。

無茶振りありきの創作。普通じゃない作品を求めるならOGDヘ。

webサイト:K.K.Theater

白い教室 ~落第生のはらわた~

第2回

小五郎

今回取り上げるありがたいお言葉は、またもやフランスの図書館長にして思想家・小説家のジョルジュ・バタイユ(1897~1962)の「我思う故に我なし」である。

これはもちろんルネ・デカルトの有名な一節「我思う故に我あり」を踏まえたパロディだが、バタイユのどの著作で読んだのかはネットに頼らない方針の当エッセイでは探り当てることがどうしてもできない。

さて、出典の曖昧さはルール上、ご勘弁願って、話を先に進めると、この「我思う故に我なし」という言葉は色々と誤解を生み易いと思うのだ。

まずなにより「我なし」なる意味を、学校や会社などの規律や模範などと捉え違う点だ。

これらによる没我や自己犠牲のことをバタイユが意図なんかしているわけがない。

いや禁忌と侵犯の作家バタイユゆえに勘違いするものだろうか?

ここで前回に引き続き伊藤計劃においで願おう。

「From the Nothing,With Love.」(『超弦領域』収録 創元SF文庫)という短篇について語ってみる。

このタイトルは「無より愛を込めて」と訳せるが、中身を読んでみれば、「無」とは無意識のことだと判る。

英国女王に仕える007(つまりタイトルは映画『ロシアより愛を込めて』のパロディですね)を超越的存在として扱う当作では、無意識と意識が対立し、争うことになっている。

その闘いは静的な筆致で息の詰まる展開をしてゆくわけだが、無意識の不気味な存在は、なにかバタイユの怪しい暗さにも通底するようにも穿ってしまいそうなほどだ。

そんな、バタイユの「非知」なんかも想起させる伊藤の無意識は、小林秀雄の以下の文章にも共鳴しそうだ。

自ら行動する事によって、我を忘れる、言い代えれば、自分になり切る事によって我を忘れる

(『読書について』中央公論新社 P17)

従来の規律・模範による中世型の滅私ではなく、独自の行動様式による近代型の自己滅却、いやバタイユも伊藤も近代的主体にはどこまでも懐疑的だったから、そうではない。

もっと現代型の脱主体のはずだ。

再度否、小林は続けて述べていた。

自分になり切る事によって我を忘れる、という正常な生き方から、現代人はいよいよ遠ざかって行く”

(同掲)

これは、中世・近代・現代なんという枠組みによるものではないのだ。

自然なことなのだ。

三度否、バタイユは『純然たる幸福』の中でこう述べている。

性行為は自然で無垢であり、それに伴う恥ずかしさは断じて容認できないとする主張が広まっているが、私はこの主張には反対する。/私は、人間が主に労働、言語、そしてこれらに結びついた行為によって自然を乗り越えているということを疑うことができない。

ちくま学芸文庫 P153)

論述がいよいよ煮詰まったところで、わたくしの汚辱に塗れた偏狭な実体験から角度をさらに変えて考えてみたい。

時は2011年10月1日~4日。

所は中国大連市。

わたくしは36才であった。

大連には1学年先輩のO氏が、出向と結婚のため住んでいた。

O氏は快活な楽天家の太身な体型で、なにからなにまで、わたくしと対極をなす人物であった。

わたくしは、初めての海外旅行で気が動転したのか、日本でのジメジメした自意識が、中国の圧倒的な現実のダイナミズムの中で、溶解して剝落してゆくような錯覚を味わっていた。

今日の今日までそう思っていたのだけど、いまこの文章を綴っていて認識が逆転した。

中国では自意識が解消されたわけではなくて、抑圧されていたのだ。

そしてその根源は中国共産党でも中国の街でもなくO氏だったのだ。

また、日本で感じていた自意識の発生する根源さえもO氏からの高圧だったと。

わたくしは、O氏が中国にいる限り断絶する決意を固めた。

最後にO氏が感銘していた言葉を今生の別れとして引く。

その苦痛を乗り越えて、新しい意識を作り出せ。”

(『子猫が読む乱暴者日記』中原昌也 河出文庫 P91)

(了)

小五郎

今年で12年目のメルキド出版のルナティックな弟のほう

twitter:@ngz55

blog:小五郎の日記

Pさんぽ

第11回

Pさん

「Pさんぽ」は、ポメラで記入しブログに転記するのだがブログにテキストを記入しタグ付けして最終的な体裁になって最終チェックをするととたんにいくつも改稿したい箇所が出てきて何の躊躇もなく書き換えて、かつそれを他のどの原テキストにも反映させないものだからポメラの原紙に残されたテキストが文脈を欠いていたりするのだが、そうなるとこのポメラの「原紙」の中にいる私が「生き埋め」になっている、という以外に一体どんな表現をすることが出来るだろうか。前回のテキストの、「もしも五木ひろしがロボットだったら」「業界の大きなパーティーで急にスピーチを指名された堺正章」に当たる部分には、別のモノマネレパートリーが記されていたのだが、それは実際にはかなり不正確なものであったので、没になったのだが、そう発音する私が生き埋めにされたと言うのでなければ、彼はどうなったと言えばよいのか、私にはわからない、そう、それはもう私でもない。

本来ならばあるはずのないモノマネレパートリーを、つまりコロッケなり堀裕人なりが「やっていそう」ではあっても「実際にやって」はいないモノマネを書いてしまってから、「ポメラ原紙」をブログの下書きに写し、最終確認をする際にそのことに気づいて、彼らが実際にマネているシチュエーションをY-tube等で視認し、もっとも爆笑を招くポイントを探ってからそれに置き換えたのであるが、その時、肉体を持って実際に爆笑している誰かはまだ救われる、いわば苦労話とか制作秘話に当たる部分に彼は位置していて、再現可能なのであるが、書き換え前に実際に発音した、「Pさんぽ」の発話者は生き埋めになるとしか言えないのではないだろうか。

「Pさんぽ」は次の回に、前回の続きを書くことによって、この回自体も生き埋めになる。

すべての人の上に、いずれは土がかかる、今もその最中であるかもしれない。(続く)