崩れる通信

「崩れる本棚」創作コンテンツ用のブログです。

崩れる通信 No.11

皆の者、「崩れる通信」の時間だヨ!

さあ、整列して進め、夜の道を転ばずに歩け。

長らくお待たせいたしました、前回(第6号)より塩漬けになっていた、リレー小説企画が、ビックリする形で戻って来ました!

どうビックリするのかは、読んで頂くしかあるめえ……!

リレー小説第6回の書き手は、「白い教室」でおなじみ、小五郎先生です。

お次は、高橋己詩先生の「映画を読むあれ」。映画を読む、なんなんでしょう。気になる~。

今回も、フィクション/ノンフィクションの欺瞞にするどく切り込んでゆく。そうしない観賞など、映画を「読む」ことにはならない、ということか。

最後は「Pさんぽ」。たったさっき書きました。

以上、三作。

明日は、番外編をお送りします。お楽しみに。

崩れるリレー小説(仮)

第6回

小五郎

いま縛られている黒と黄があざなわれた工事用ロープみたいに、夢と現が交差していたらしい。

それがパチンと弾けでもしたかのように私は純度の高い現実に降りた。

浅い眠りで目まぐるしく展開していた夢と現が、いったいどんなものだったかなんて、瞬時のうちに消し飛んでしまった。

状況は最悪であると即座に認識した。

私の前に三人の半裸の若い女たちがいた。

それぞれナタ、クワ、スキで武装しているかのように見えた。

後ろ手にされた手首と引き離された足首をロープがきつく締めつけていた。

椅子に括りつけられて、さらに猿ぐつわまでかまされていた。

花粉症気味だったのに、鼻呼吸がなんなくできていた。

薄暗い倉庫の中みたいで、波音が微かに聞こえた。

そして、目覚めたばかりの私はようやく気がついた。

床にしゃがみ込んでいる彼女ら小声でなにか喋っていることに。

しかし南方の外国語にしか聞こえず、八ヶ国語を解する私の耳を持ってしても意味が判ったのは、クワを肩に掛けた女が言った“ペヨーテ”という単語だけだった。

“ペヨーテ”

勿論、翔が小学生のとき話していたポンチヌ島名産の幻覚サボテンのことだ。

南方ゆえに、春なのにこうも暑いのか。

この暑さでは、どうやら日中のようだ。

いいや、あの可能性もある。

倉庫の中には一切外光が差し込んでおらず、灯りが幾つか点されていたからだ。

天井にはファンなどはついていない。

だから電気は通じていないのかもしれない。

“ペヨーテ”今度はナタを持った女が興奮した大声で言った。

私のことは、完全に無視して“ペヨーテ”の話に三人は夢中だ。

いやはや、どうやらポンチヌまでものの見事に拉致されてきて、冷静に状況を分析してしまっている私のほうが、拉致されてきた事実より怖いぐらいだ。

それには理由がある。

夕食後に自室で天馬様の占いを読んでいたのが最後の記憶なのだが、そのときがまさに、暗黒年、暗黒月、暗黒日、暗黒時間だったのだ。

こうなるのは当然なのだ。

それから気を失い、ついさっきまで半醒半睡でいたわけか。

まだ殺されていないのが不思議なくらいだ。

しかし、もう時間の問題だろう。

惨たらしく殺される運命なんだ。

運命を受け入れると、ひとは驚くほどに冷静になれるものだ。

それはそうと、私は耳がいい。

周りに、この能力のことをクローズにしてしまうくらいに。

「ジャック」と確かに聞こえた。

三人のうち、誰が言ったかは考えごとをしていて注意散漫だったので判らなかった。

ポンチヌ島においても、ハリウッド映画が席巻しているのなら、ジャック・スパロウのことだろうか?

いくらなんでも発展途上国のハイティーンの娘らが、デリダラカンのことを、愛情を込めてジャックと呼ぶとは思えないし、新マンを通ぶってウルトラセブンよろしくジャックなんていうわけもない。

いやはや、そういえば翔は、初代マンの主題歌が好きだった。

小さなころは隣の彼の家に遊びに行くたびに、ウルトラマンのビデオを強制的に観せられ、挙句の果ては、主題歌の異常な替え歌まで合唱させられたものだ。

私は、派手なファッションセンスだけは好きにはなれなかったけど、翔の物知りなお父さん目当てで遊びに行っていたんだが……

それにしても、なぜ選りに選ってポンチヌに拉致されたんだろう。

ポンチヌと言えば、私の大好きなチンポムだが、これは関係ないとして、やはり翔の家族関連としか思えない。

そうでないなら、いくら天馬様の予言が当たったとはいえ、ポンチヌで殺される意味が判らない。

やはり、ポンチヌで一山当てた翔のお父さん絡みの揉めごとに巻き込まれてしまったと捉えるのが妥当なんだ。

ポンチヌでは翔のお父さんの春樹さんは相当“ペヨーテ”の利権争いで恨まれていたらしいし。

でも私は一切関係ないはずなんだけど。

まさか人質か?

それとも、翔の妹に間違えられたか!

桑原、桑原。

ジャック・ザ・リッパー

今度はしっかり視線を娘たちに向けるのを怠らずにいたので、スキを腋に挟んだ女がそういったと判った。

「ジャック」は、きっとポーカーの話だろうと考えを進めていたが、それは一瞬にして瓦解した。

まず間違いなく切り裂きジャックのことだ。

でも娘らがいうものは、今年になって正体が当時23歳のポーランド人の床屋アーロン・コスミンスキーだとDNA鑑定で判明したとされ、その後ガセネタと断じられたニュースでも有名な切り裂きジャックのことではあるまい。

19世紀末の英国を震え上がらせたジャックではなく、21世紀初頭の日本を同じく震撼させているジャックのことに相違ない。

やはり私を遥々ポンチヌまで拉致してきたのは誰あろう、変態性犯罪者の「平成の切り裂きジャック」なのだ。

ということは、翔のお父さんと切り裂きジャックの並々ならぬ遺恨のため、私は生贄になったんだ。

やっと断定できたところで、突然眩しい外光が薄暗い倉庫に差し込んできて、私は目を瞑った。

娘たちの歓声が響く。

ようやく目を開けて扉のほうを見ると、小男が空のザルを抱え突っ立っていて、娘らが細長いものをムシャムシャ食べていた。

逆光の中、男はキャップを被り、Tシャツに短パン姿で、にこやかに笑っているように見えた。

娘らがバタバタと倒れてゆき、男はどんどんこっちに近寄ってくる。

顔に焦点が合わさる。

満面の笑みを浮かべている、その男は、まさに翔の父、村上春樹だった。

「やっほー。助けにきたよ~」

ザルの上には、ぐにゃぐにゃのお面と駄菓子の袋が置かれていた。

小五郎

今年で12年目のメルキド出版のルナティックな弟のほう

twitter:@ngz55

blog:小五郎の日記

映画を読むあれ

第3回 『11:14

高橋己詩

情報の取り扱いは難しい。

映像、音楽、あるいは文字、それら一つ一つの媒体に見合う情報の取り扱いの難しさについて思うところがあり、最初の一文を書いてみた。

たとえば随筆。

文字によって形成される随筆は、発信者側の主義主張をあまりにダイレクトに表現できる媒体である(前提として、受け手を強く能動的にさせることのできる媒体であると私は考えているが、それはまた別の機会に)。それだけに過剰に衒学的であったり、単なる情報や展開の羅列しか行われていなかったりすると、文字の特異性を活かせていないという印象を撒き散らすことになってしまう。

随筆を書くにあたり、誰にでも理解できる情報を使いこなせなければ共通認識を生み出すことはできず、故に説得力に欠ける。簡単に理解できてしまえる情報であれば新鮮味に欠ける。そもそも情報に懲りすぎると、その随筆に存在意義はない。wikipediaやまとめブログが、既にその役割を果たしてくれている。

映画も、まあ、前述の通り。情報量のさじ加減が不安定になると、ジャンルの境界をうろつくだけに留まる。ちなみにタランティーノ、スコセッシ、中島哲也監督あたりは、それを意図して娯楽性に昇華させることすらできる稀有な才人ではなかろうか。

さて、今回このテーマで私が取り上げたい映画は『11:14』。読み方はそのまま、じゅういちじじゅうよんぷん。WOWOWで放映した際には『惨劇の11時14分』というタイトルだったそうだ。強烈にB級映画感を漂わせるタイトルだが、それが妙にマッチングしているのも否めない。

夜道。携帯電話片手に通話しながら、青年が車を走らせている。助手席には酒瓶。危なっかしいシチュエーションから始まり、デジタル時計が11:14を示す。突如、衝撃音。急停車。フロントガラスぱっきゃー。どうやら人間を轢いたらしい。あたふたしながら隠ぺい劇を繰り広げているところに警察が現れ、青年の逃走劇が始まる。

フラッシュバック。映画は数分前の、別の場所へ至る。今度は記号的にやんちゃそうな、3人の男子が主人公。こちらも同様に車を走らせる。本を燃して窓から放ったり、窓から放尿したりと、やりたい放題。そして時刻は11:14。衝撃音。急停車。こちらも人を轢いたらしく、逃走劇。放尿男子は勢いよく閉った窓のせいで「おれのペニスが取れちまった……」。そんなわけで、無傷代表の男子が事故現場へと戻る。

またフラッシュバック。数分前、ヤサおじさんが犬の散歩をする。通りかかった墓地で、愛娘の車のキーを発見。しかも傍には頭の潰れた死体。娘、一体何をした。とりあえず隠ぺいせねば。

またまたフラッシュバックし……

こうして、ほぼ同時刻で起こるいくつかの事件がいくつかのパーツになって映し出され、次第に全貌が明らかになっていく群像劇。それが『11:14』。読み方はそのまま、じゅういちじじゅうよんぷん。

ストーリーがストレートに生み出す緊迫感に、編集テンポや間の抜けた演技による滑稽さが上乗せされる。娯楽映画として充分楽しめるが、それ以上に、やはり「情報」だ。この映画における情報の少なさ、いや、厳密には「必要最低限な情報の提示の仕方」が秀逸である。

このアイテムは何か、場所はどこか、どんな人物か。説明的な説明はほとんどされず、ただ映像的に説明されていく。そうして観客は展開や人物像を把握することになるが、それだけではない。各々のシーンに共通する小道具を映し出すことにより、各人物の距離感や、秒刻みの時間差を、自然に明確にしているのである。しかもその小道具が、また別のシーンに登場する人物の行動を左右する。燃して窓から放られた本が良い例だ。

映像だからこそできる無駄のなさ。その媒体の特異性が見事に活かされていて、その媒体が選択された必然性を感じずにいられない。

そうした観点から、私はこの映画を偏愛している。どれ程かというと、かつて書き上げた自分の原稿に「需要と供給の二十三時十四分」と命名した程だ。

高橋己詩

講談社 birth で生まれた小説家。現在は無料頒布の猛獣。

Pさんぽ

第13回

Pさん

今、本来は実在しない空想の人物「Pさん」が歩いているのは7月17日の台風らしい風が夜中に吹き荒れた夜が明けた次の日で、第一「Pさん」なんていう変な名前の人間が日本に歩いているはずがない、とはいえ空想上では歩く、アスファルトと土の上を軽い足取りで歩く、色んな情報を頭の中で反芻しながら歩く、誰からも見られずに歩く。

場所は家から一駅離れたN増K口S骨院までの道で、途中ほとんどがXO街道という、この地域をかぎる幹線道路に……(oshiete.goo.ne.jp highwayは高速道路ではなく幹線道路だと教わったのですがそもそも高速道路と幹線道路の違いがいまいち分かりません。 教えてください。通報する.この質問への回答は締め切られました。)……沿っていて、この道は何度も通っていて、この日、何か特別な事が起きたというわけではなく、わざわざこの道のり、歩みを取り上げたのは、実験的な意味合いが含まれている。

縦に長い黒曜石みたいに真っ黒でツルツルした表面のビルディング、仏壇屋の隣に過去空き地だった今は駐車場があり、その隣に麺屋Iが建っていた。

麺屋Iが開業したのは9月1日からなので、その日はまだ工事中だった。(続く)