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崩れる通信

「崩れる本棚」創作コンテンツ用のブログです。

崩れる通信 No.14

はい。色んな意味で、佳境に差しかかって参りましたね。

本日はコミティア114の開催。当「通信」に原稿を寄せて頂いている幾名かの書き手サンも、ここに参加しています。

そして、Pさん氏の「極短編集」も、どこかで配布するという噂じゃ、あーりませんか。

ただ、このブログがアップロードされる頃には、全ておヒラキと相成っているわけでして、何とも。

もし、何らかの形で私どもの作品に触れる方がいたとしたら、この場を借りて、ありがとうと言わせて下さい。

そして、あと一週間と一日経てば、もう、第21回文学フリマ東京が開催されます。ワクワクしている人、原稿を書き直したくて仕方がなくなっている人、寝ている人、寝てない人、そんなヤキモキに空模様も変わってしまうでしょう。

さて、今回の通信は……

一作目、小五郎氏の「白い教室」第3回。

連載をつづけて読むと、不思議なリズムに貫かれているのがわかります。

二作目、クロフネⅢ世氏の「路上観察のすすめ」第3回。

ブレない、ズレない、路上観察

最後には、Pさんという人のエッセイ。

以上。崩れる通信は、日々迷走しつつ、適切なウェブジンであろうと努めています。

白い教室 ~落第生のはらわた~

第3回

小五郎

初回はサルトル、前回はバタイユと、フランス勢が続いているので今回もこの調子に乗って、20世紀フランス最大の作家・批評家にして元祖覆面作家でもある、モーリス・ブランショ(1907~2003)の言葉に注目したい。

といっても今回取り上げる箴言「意志からは決して」は、元々はマルグリット・デュラスの小説『死の病い』(朝日出版社)の台詞である。

これをブランショは評論『明かしえぬ共同体』(ちくま学芸文庫 西谷修訳 P108)において引用した。

ちなみに小林康夫訳の『死の病い』では、「けっして欲することからではないわ」となっている。

なんかバタイユ

「欲求がないことは満足がないことよりも不幸だ」

「人間でありたいという欲求を失った人間」

(『魔法使いの弟子』景文館書店)

とか書いていてブランショらの言説に対立する考えだ。

バタイユの恋愛論だそうだけど。

中原昌也

劣情を抱きつづけろ!

(『中原昌也の人生相談』リトルモア

と述べていた。

さらには九鬼周造においても

ツァラトゥストラは「意志が救いを齎す」ということを教えた

(「をりにふれて」岩波書店

と述べる。

これは単にジェンダーの差で意見が異なるのか。

まあ、デュラスの場合は評論ではなく小説なのだから事情は違ってくるのか。

しかし女性の立場からの登場人物の発言であることには変わらない。

男女のダブルバインドに陥ったところで、興味深い2本の映画の記憶がおぼろげに思い浮んだ。

それは、デュラスの小説『ラホールの副領事』を自ら映画化した『インディア・ソング』(1974・仏)と、ルイス・ブニュエルサルバドール・ダリが共作したトーキー初期のアヴァンギャルド映画『黄金時代』(1930・仏)の2本だ。

両作ともに失恋映画で、わたくしの実体験を披歴するのなら、1998年を想起せずにはおられない。

ミシェル・ウエルベック素粒子』の舞台でもある大失恋時代の1998年だ。

カルカッタの夜の街を大声出しながら彷徨する副領事と、パーティー会場で頭を抱えながら歩く惨めな男。

両者とも、“意志”の罠に嵌まって、後戻りできない自己言及に落ち続けてゆく。

恋愛に“意志”は無用だ。

わたくしは、1998年に強くそう感じた。

あれは、たしか5月だった。

場所は、早稲田大学大隈講堂小ホール。

シネマ・エティックという学生団体によるドキュメンタリーの特集映画祭が催されていた。

わたくしは、23才に達する目前。

おかしな行動に出たのは、その映画祭中だったと思うが、記憶は定かではない。

思い出したくもない。

なので、ここでは秘密のままにする。

敢えて“意志”に気づかない振りをすることのほうが大切なんだ、といまになって思う。

“意志”を隠しつづけろ!

攻めでも、受けでも。

(了)

小五郎

今年で12年目のメルキド出版のルナティックな弟のほう

twitter:@ngz55

blog:小五郎の日記

路上観察のすすめ

第3回

クロフネⅢ世

最近、東京カレンダーの「東京女子図鑑」という連載内に出てくる綾という女性の一生がネット上で話題になっていた。綾と言っても、実在する人間の一生を追っているわけでなく、架空の東北出身女性が就職とともに上京し、最初に三軒茶屋に住みつき、その後に転職・キャリアアップや結婚など人生の転機ごとに都内を引っ越していき、彼女の人生と価値観を通してその土地のお店を紹介していくという企画である。この綾に対して、ネット上ではどうせ50過ぎたおっさんが書いているんだろ、などの批判が続々出ていたわけだが、それはこの連載では全く関係ない。

問題は、このどこに住むかでその住人の属性がはっきりしてくるという点である。また、その土地が持つ歴史を含めた特性というのも浮き上がってくるものだ。東京ほど、こんなに細かく、それも区単位ではなく更に細分化され駅周辺ごとに語れる土地もないのではないだろうか。他の土地では、下手したら県単位で語られてしまうこともあるだろう。つまり、東京は都民性などと大雑把には語りきれず、どこに住んでいるかをもっと細かく分けてからその人を語る必要があるのだろう。

では、皆さま読者の土地はどうでしょう。都内に住んでいる方は、出身地を思い出してください。ずっと都民の方は……想像で補っていただければ。

語れるような土地でしょうか。都内と比べると、意外に語れないかもしれませんね。

いや、しかし、それはまだ地元の隠された魅力に気が付いていないだけかもしれません。しかも、飲食店などの店や歴史・伝統芸能などの分かり易い魅力ではないところに。

それって、どこなのよ?

はい、それに気が付くためにあるのが『街歩き』になります。つまり、『路上観察』の登場です。路上観察は、新たな街の魅力の再定義にうってつけなのです。

それを証明するために、筆者は実際に街歩きをしてそこで見えた魅力ある光景を利用して、筆者の地元『横須賀』を再定義してみることを試みてみました。今回と次回は、創作から少し離れて、路上観察から地元の魅力を再定義してみることがテーマになります。OLの綾には決して見いだせない横須賀の隠された魅力。それではお付き合いください。

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当日は、残念なことに雨になってしまった。しかし、この日を除けば街歩きしている暇などなかったために、筆者は強行して街歩きを始めた。珍しく横須賀で同人誌即売会が開かれていたのでそこを軽く覗いた後、京浜急行の汐入駅裏手から上町に向かって上がっていくコース。スタートしてすぐに、最初の写真のような崖が筆写を迎えてくれた。行く手を遮るような、と表現したくなるところだが、もちろん先は続いている。横須賀は、このような崖がいくらでも見られる土地。いわゆる『谷戸』がひしめき合っている土地なのだ。平地の方が圧倒的に少ない。壁を覆い尽くさんとする植物たちの生命力もまた、創作意欲に火がつきそうだが、それはまた別の話である。

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起伏が激しいとなると、もちろん坂や階段も多くなる。

どこかの歌詞にも登場するが、横須賀は急な階段が多い。先ほどの崖も沿って歩いているとほら……階段が現れた。

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こんな家と家の隙間もな何かあるかなと思って入り込んでみれば……

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ほら、階段だ!

完全に家の裏側にある、誰が利用するかもわからない階段。こんな隠し階段もまた、横須賀の魅力である。

筆者は、そのままこひさまコーヒーと俗称パンダ公園の間の道を入り、坂を上がることに。

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件の通りに、当日は雨であった。しきりに降る雨粒は路上を濡らしているわけなんだけど……この光景はなんだろうか?

写真だと分かりにくいが、あのバケツが置いてある個所はピンポイントで庇から激しく雨粒が降り注がれていた。その雫から守るかのように置かれたバケツ。しかし、あろうがなかろうが路上はぬれるわけで……。

こういう光景に視点を向けるのもまた、路上観察である。日常を再定義しよう。

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看板と書かれた看板。ちなみに、看板の店である。モダンという響きが逆に哀愁を感じさせるから不思議だ。

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手すりの色を変えてアクセントをつけオシャレにコーデ。

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で、歩き続けて出会った光景がこれである。

崖の上に立つ一軒家。なんだか、この家専用の崖。言ってみれば、マイ崖ですよ。

横須賀は、一家に一つの崖を所有している、という嘘を信じてもらえそうな光景ですね。

しかし、読者の方々、この写真をもう少しよく見ていただきたい。

この写真最大のポイントは、崖でないんです。

もう少し注意深く見ていただけると……分かるでしょ?

分かりません?

ほら、あの部分が……。

この続きは、次回へ持ち込みます。

お楽しみに。

クロフネⅢ世

企画型サークル『男一匹元気が出るディスコ』。

無茶振りありきの創作。普通じゃない作品を求めるならOGDヘ。

webサイト:K.K.Theater

Pさんぽ

第16回

Pさん

翻訳者の手の親指と人差し指の間に挟まれているのがまず万年筆で、これはいわゆる「プラマン」みたいな、「万年筆ライクなサインペン」ではなく本物の、スリットが飾りではなく入れられていて、ニブにイリジウム等の摩耗に強い金属の使われている本物のやつなので殴り込む時に少なくても頬肉を貫通することくらいは覚悟しなければいけないのだが、だからといって「プラマン」であれば頬肉は打撲くらいで済むのかといえばそれは済まずに頬肉を貫通する。次に翻訳者の手の人差し指と中指の間に握り込まれているのがマッキー黒極細で、これは初手の万年筆でえぐり込んだ右頬とは反対側の左頬あたりを狙ってそこに業の深い梵字を練り込み相手を呪い殺す。もちろんペン先が金属で保護されている「極細書き」の側ではなく「細書き」の方である、なぜなら目的は先鋒万年筆のような殺傷能力にあるのではなく美麗な梵字を書きつけることであるのだから。中堅は驚くことに修正テープがこれに続く。翻訳者だって鬼ではない。左頬に、死ぬとはいえいたずら書きみたいのして死なれるのはなんか気が進まないというか、悪いことしてる気がして。左頬の梵字を真っ直ぐ目指しビーッと白い線を引く。ところがその優しさがむしろ対象にとっては恥の上塗りとなり顔面にただマジックで書かれた変な線があってしかもそれを肌の色とは違う白い修正テープが、ヨレヨレになりながらぜんぜん全部は消せずにほとんど残っているのだから笑うしかない。対象が笑った拍子に鼻腔がわずかに開く、その隙を見事に突くのが大将のチューブ式練りわさびである。

副将はどこへ?(続く)