崩れる通信 No.17
一作目、紗那教授による「莉子と亜紀の自動車いろは」第4回。
紗那教授は、ずっと、名前に「教授」と付いているから、敬称をあれこれ悩む必要がないと、ずっと思っていました。
トランスミッションについてのお話。編者なぞは、オートマばんざい、といったところです。
二作目、落山羊さんの「えいえんの少女と小説」。鉄板ネタとは、王道とはなんぞや、という所を、深山くのえ「アラビアンローズ ルゥルゥの不運」を読み解きながら語っていきます。
実際、逃れることの出来ない王道パターンというのは、どうしたってありますが、そこからの差分をいかに作るかによって作品たりうるという話は、どんなジャンルにも当てはまることではないでしょうか。
ううむ、うなります。
それから、Pさんの「Pさんぽ」。何だか不穏な動きをしはじめました。
以上。この場を借りて、高橋己詩氏の「映画を読むあれ」は、氏が「人間とかの書き物」に専念するという形にて、休載となります。
僕が「映画を読むあれ」を書きます。
莉子と亜紀の自動車いろは
第4回 ~トランスミッション編~
鉢巻展望台で休憩を終えた二人は、再び莉子のオープンカーに乗り込み、表六甲ドライブウェイを下っていく。この道は緩やかなコーナーが多いが、ある意味それだけ速度調整が求められる。
莉子はシフトをDレンジからM(マニュアルモード)に切り替えて、ギアを-(マイナス)に入れてシフトダウンしたり、+(プラス)に入れてシフトアップを頻繁に繰り返す。
助手席に座っている亜紀が莉子に話しかける。
「莉子の車ってオートマなのに、何かすごい忙しそうだね」
「ん? そんなことないけど? ただ、速度とエンジンの回転数に合わせてギアチェンジしてるだけだよ」
「私の車はCVTって言うのかな、Dはあるけどこの車みたいにプラスマイナスじゃなくて、Sっていうのがある」
「なるほど、亜紀もついにトランスミッションに興味を持ち始めたかー」
「いや、トランスミッションって何?」
「簡単に言うとギアボックスのことだね。教習所で勉強したところもあると思うけど、今一度簡単におさらいしてみようか」
「は……、はぁ……」
<代表的なトランスミッション>
■MT(マニュアルトランスミッション)車
・アクセル、ブレーキ、クラッチの3つのペダルがある。
・アクセルでエンジンの回転数を上げながら、
クラッチペダルを踏み、ギアを繋いでいかないと前進しない。
・ギアは5~6段の車が主流。
・エンジンの回転数が足りていない時にクラッチを繋ごうとするとエンストする、
つまり車が止まってしまう。教習所に通う人なら誰もがつまずく壁(AT限定者は除く)。
・自分の意思でギアを選択できる楽しみがある。なので、スポーツカーで設定されていることが多い。
■AT(オートマチック)車
・MT車と違い、クラッチペダルはない。
・ブレーキを離し、シフトレバーをDレンジに入れることで、
車が自動的に進む(クリープ現象)。
・ギアは4~6段の車が主流。高価な車は7段以上の設定もあり。
・MT車と比べて、基本的にエンストする心配がない。
AT限定だとMTよりも免許が取りやすい(と、思う)。
・車種によってはMレンジがあり、莉子のオープンカーのように
自由にギアチェンジができる。ただし、MT車程ダイレクトではないので、
ギアチェンジに多少ラグがある(車種による)。
技術の進歩により、ATしかないスポーツカーもする。
ちなみにF1レーシングカーもAT車の一種である。
・近年の日本車に多く設定されているトランスミッション。
・ギア比を無段階に変更することができ、最適な回転数を常に保持できる。
・エコカー等、燃費重視ならば相性がいい。
・変速したときのショックが少ない。
・ぶっちゃけ筆者はCVT車のことをよく分かっていない。
「ってな、感じ」
「ふーん……、何となく分かったかも、いや分からないかも」
「あっ!」
突如、莉子が驚いた声を発する。
太いマフラーから低い唸り声を上げた真っ赤なセダンタイプのスポーツカーが、彼女の車を横から一瞬で追い抜いたのだ。
「今のはM社のラ○サー○ボリューションって車! DCT(デュアルクラッチトランスミッション)っていう、日本ではとても希少なトランスミッションを積んだ車なんだ!」
「え、え」
「ペダルはAT車と同じで2つなんだけど、MT車と同じようにダイレクトにギアチェンジが可能な、まさに最強のトランスミッション! あたし、あの車の後ろ姿が好きなんだ。だから、ちょっと追いかけるね」
莉子はアクセルを踏み込んで、エンジンの回転数を一気に6000回転まで上げる。シートの後ろからマフラーが獣声のごとく吠え上がる。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁー! ちょっと! やめてぇぇぇー!」
※公道では交通ルールを守り、安全運転を心がけましょう。
えいえんの少女と小説
第4回
鉄板ネタ。王道、お約束、テンプレート。
というのは割合どこにでもあって、少女小説の恋愛ものにおける「鉄板」は基本的にはやはりシンデレラストーリーだと思われます。不遇のヒロインが、地位容貌性格優れた青年に見出されて引っ張り上げられ、あれよあれよと流されつつも健気さとか、純真さとかで、周囲のひとたちを変化させながらハッピーエンドになる。
決して馬鹿にするつもりなく、「鉄板ネタ」というのは面白いです。そして、ハッピーエンドのシンデレラストーリーを求めて少女小説を読む、というひとも少なくないように感じられます。(一時期のファンタジーなんかではこの辺に飽き飽きしたのか、やたらバッドエンドなども見られましたが……)。いままでの紹介作からすると、わたしは全然ハッピーエンド好きではないひとのようですが、絶対数からしてハッピーエンドの恋愛ものを読んでいる数のほうが多いのです。
その「鉄板」を読むときって、やっぱり楽しみ方が変わってくるような気がします。あくまでもテンプレートに沿わせて、逸脱せずに差異をださないと、だれの記憶にも残らなくなってしまうから。
そのときに重要になってくるのが主人公だと思うのです。
今回紹介するのは小学館ルルル文庫から2009年発刊の深山くのえ著『アラビアンローズ ルゥルゥの不運』です。……この深山くのえさんは、ベテラン作家さん。いまでもルルル文庫で活躍している、「鉄板」の名手なのです。『アラビアンローズ』と題した作品はもうひと作品あるのですが、シリーズではなく、同一の世界を利用した読み切りとなっております。推したいのはこの『ルゥルゥの不運』のほう。うつくしい青が印象的な表紙です。
さて舞台は最近(?)流行りのアラブ。いわゆるアラブもの(日本人の想像しやすいアラビアン、砂漠とか、ハレムとか、お大臣とか。イスラムとは無関係。主として異国情緒を楽しむ、程度のエッセンスだと思うべし)で、薔薇を象った宝石をめぐるちょっとした陰謀劇なのですが、そちらの要素はごくごく薄め。注目すべきは主人公のルゥルゥ、イフタタナという歓楽街の踊り子です。ひとまずこのルゥルゥのプロフィールを、鉄板のセオリーと照らし合わせながら見ていきます。鉄板てなんぞや、と思う方は少女漫画の主人公を想像してもらったほうがはやいかもしれません。そのあたりに少女小説との差異はあまり見られない、かも。
・童顔、小柄、色気がない(たぬき顔のかわいいタイプ)
・そのため踊り子団をよくクビになる
・踊りの才能はある(一芸)
・純愛で結婚した両親はすでに他界し、気風のいい養い親(女性)と暮らす(愛されて育った)
・純真で初心
ここまでが鉄板ポイントです。しかしそこは深山さん、というのが、この「鉄板」からいかに外しすぎない外しを差し込むか、という点にあるのです。そもそも歓楽街の踊り子という設定も、どちらかというと「鉄板」から外れますね。一般の文学作品なら娼婦の純愛もありなのですが、少女小説でそれはあまり認められていません。ので、歓楽街育ちの踊り子、なのに、純真で初心などというキャラクタが出来上がるわけです。
・歓楽街の踊り子である
・口より先に手が出る(ヒーローを蹴る等等)
・行動派、積極的
なんて可愛らしい外し方をしてくるわけです。この外しと鉄板を絡めあわせて、ルゥルゥという親しみやすくもちょっと変わったヒロインが生まれています。
物語上で、ルゥルゥは両親の形見の腕輪が「西の青い薔薇」という王家の宝石に似ていることからトラブルに巻き込まれ、偶然助けられた第四大臣のアーシファという青年の家に保護されます。ちなみにこれはアラブもののお約束なのですが、アーシファはなんと19歳で大臣。跡目争いで兄弟は全員死亡、という凄まじい生い立ちの持ち主です。なのに性根は曲がっていないし、まさしく理想。かっこいいですね。
そうしてナチュラルに「同居」条件を満たし、(この、トラブルに巻き込まれて保護のための同居、という流れも鉄板)もちろんひとつ屋根の下ですったもんだで仲良くなりつつ、という決まりきった、それでいてわくわくせざるを得ない状態になるわけです。
余談ですが、深山さんの作品の特徴に、てらいなく気持ちを伝える男性キャラクタ、というものがあります。下手に不器用に悩んで一周回って主人公を傷つけたりすることなく、いっそ清々しいほどに「可愛い」「愛してる」「私の妻に」云々と連発してくれるので、こちらの気持ちも和むというもの。かっこいいですね。
そーんな展開があって、ルゥルゥもなんだかんだとアーシファに惹かれていくのですが、ここでお決まりなのは「もしも」という主人公の願望が芽を出すところです。シンデレラなら「もしもわたしが舞踏会にゆけたら」となる。つまり主人公が、自分の地位が上がれば、と願うのが「鉄板」なのですが、ここでもまたルゥルゥの魅力が発揮されます。
いち歓楽街の踊り子のルゥルゥと、大臣のアーシファでは、その身分差は天と地ほど。……というのが深刻に描かれすぎないのがこのアラブものなのですが、まあ、それは置いておいて。その身分さをやはりルゥルゥも意識せざるをえないわけですが、彼女は、
もし、アーシファが大臣とか、そんな偉い人じゃなかったら、歌い手になって、って、言えたかな。そうしたら、あたし、イフタタナでも、アーシファの歌で踊れたのに、惜しいな。
と、この相手の身分を自分のほうへと求める、相手を自分の生活基盤へと引き寄せる「もしも」が、ルゥルゥを「鉄板ネタのヒロイン」から「この物語のヒロイン」、ひとりの生きている女の子へと差別化しているようで、とても素敵な箇所です。
引用からお察しの通り、『ルゥルゥの不運』は全編ルゥルゥの一人称で記されており、その軽快な口調とあけすけな想いが、なおさらルゥルゥを独立したキャラクタとして魅力的にしているのかもしれません。このルゥルゥ、一人称の独白でしょっちゅうアーシファのことを「かっこいい」と言うのが面白いです。アーシファは遊び人で軽薄な男のように写っているにも関わらず「かっこいい」、もうそれ引っかかってるじゃん、ってところがお約束ですね。
そんなこんなですれ違いなんかも大したことなく、宝石をめぐる事件も特に起伏なく。ストーリーとしては退屈といえる点もあるのですが、それを感じさせない読み口はルゥルゥ一人称による感情の動きがストレスゼロで伝わってくるからでしょう。アーシファがしょっちゅう口説き文句を垂れているのと同じように、ルゥルゥは一人称のなかで読者にアーシファへの想いを開け広げにしている。それを読むうち、わたしも自然と「アーシファかっこいいじゃん」と思うようになっているというワケです。
一人称を好まないかたも多いとは思いますが、ここまで両者ハートをフルオープンにされるといっそ気持ちがいい。そこに「鉄板ネタ」ゆえのハッピーエンドの確定という安心感が加わるので、我々はもう何も恐れることなく、キャラクタに没頭できます。ほっといても大丈夫で、ルゥルゥがかわいいだの、アーシファがかっこいいだの、そういうことだけ考えられるのです。
ちなみに『ルゥルゥの不運』でははい結婚、というエンドには実はならず、ルゥルゥは実際に自分の生活圏(イフタタナ)までアーシファが出向くことを要求して、アーシファのためだけに踊る、という非常に強かな終わりかたをします。ふたりは両想いだし、ルゥルゥだって「さらってほしい」なんて言って終わるのですが、それにしたって逞しいですよね。自分の持っているものを適当にしないで、自分の世界と相手の世界の中間点を探す。その姿勢も、一筋縄ではないかないルゥルゥの魅力になっています。彼女はいわゆる「お姫さま」にはならないところがとても好きです。
テンプレートを知り尽くしているからこそ、どこを変えてどこを変えず、かつ記憶に残る物語にするか、というのを深山さんの作品はいつも教えてくれる気がします。秀作だがどれも同じよう、というのとは違うのです、記憶に残る作品になるから。そういう意味で、常に高い水準ながらも安心感を与えてくれる深山作品はいったいどんな魔法を使っているのか、ものすごくものすごく気になるのですよね。尊敬する作家さんのひとりです。
多数の著作がありますが、どれを読んでも面白い。大作でもなく、怪作でもなく、王道のシンデレラストーリーでありながら「どれを読んでも面白い」は、神がかっている。とよくぶつぶつ言ってしまいます。もちろん、刺激を求めたいときや冒険をしたいときに読んで面白いというわけではありませんけれども。でも、私は個人的に、「恋愛ものの少女小説」をひとに勧める時に、深山さんの作品を選ぶだろうなという気がします。
エキセントリックな人物はひとりも出さず、それでいて魅力的。女の子はかわいかったり、勇ましかったり逞しかったり。男はいつもストレートで闇を抱えない。それは確かにテンプレートでありますが、決して馬鹿にできるものでもなく、むしろその条件付けで面白い物語を造るには技術が要求されます。甘い恋愛や幸せなエンディングに目をやりがちですが、そこだけを見て「ありきたり」と言わないでいられることが、読者の技術となるのかなと。
最後にすごく言いたかったのが、ルゥルゥという名前とってもかわいいですよねってことでした。ルゥルゥ、「真珠」という意味だそうです。
……四回目にしてようやく普通の「少女小説」を紹介できたような気がしました。
どちらかというと丸顔で、目が大きすぎて、背が低くって、胸や腰回りの肉付きが貧弱だっていうあたりに原因があるのは、自分でもわかってるんだけど。
……せめてもうちょっと、背が高くならないかなぁ……。
鏡の前で爪先だちしてみたところで、何が変わるわけでもないんだけど、ちょっと無駄な抵抗をしてみる。……虚しいだけだね。
いくら嘆いたところで、今すぐ何かが変わるわけじゃない。それより、今日からの稼ぎのことを考えなくちゃ。
(同本編15頁より引用)
「喉渇いちゃった。飲み物ちょうだい」
「……我儘な踊り子だな。客に歌わせたり、飲み物を注がせたり」
「そう思うなら、毎晩毎晩、こうやってあたしを呼ぶの、やめたら」
アーシファはグラスに薔薇水を注ぎながら、ちらっとあたしを見て、苦笑いを浮かべる。
「きみがうちに来てくれないから、私が足を運ぶしかないだろう」
(同本編230頁より引用)
Pさんぽ
第19回
話はPさんぽ第15回に遡ると、Iさんは日勤でρさんは遅番で11時に二人が邂逅した時の話題である。Iさんはこれと形容しがたい仕事人間で仕事の為に動いている時は機械のように動き機械のように動いていない時は協働する人間が好ましい人間か好ましくない人間かによって態度がカッキリと二パターンに分かれる。実際にはIさんの自己認識としては「私には苦手な人間はいない」あるいは「どんな人間も攻略した」つまり彼女にとっては人間とはコミュニケーションによって自分との優劣を付け自分にとって操作可能であるか否かによって峻別されその「否」の部分を全否定することによって全ての人間を手中に収めることを目標として生きてきたのだがそんなことはドラゴンボールのスカウターを使うまでもなく既に彼女にとっては可能なことあるいはカスタムモードにおいて過疎率を限界まで高めたマインスイーパを攻略するがごとくに自分色の灰色にマッピングされ尽くしているのであって残りの
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の左のコマを開けるのみだと言わんばかりなのである。
ρさんなどはすでに彼女に踏破され尽くし割とそれは深い部分までそうされているのだからIさんの能力(人間を理解する能力)もバカにはならないのだがところでPさんと微妙にフォントの違うρさんとは一体何者なのか? 次回は「Pさんぽ」計画に関する詳細に亙るまでの企図を余す所なく説明し尽くして見せる。(続く)