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崩れる通信

「崩れる本棚」創作コンテンツ用のブログです。

崩れる通信 No.19

みなさんこんばんは、「崩れる通信」です。

一作目、そにっくなーす氏「精神科ナースが命を狙われた話」第5回。自己隔離のすすめ。

二作目、ウサギノヴィッチ氏「6 minutes ago」第2幕。

三作目、「Pさんぽ」。

どうぞよろしく!

精神科ナースが命を狙われた話

第5回 「自己隔離のすすめ」

そにっくなーす

隔離、というとどのようなイメージがあるだろうか。精神科病棟には隔離室(保護室ともいう)がある。よくある「隔離室といえば?」のイメージというと、なんやら暴れてしまった人が鎮静剤を腕に注射されて看護人二名に抱えられながらずりずりと連れて行かれる場所、といったところか。そこで疑問が呈される。

「隔離は暴れたことへの罰なのか?」

もちろんNOである。隔離室の目的は、患者さんおよび周囲の人の安全を守るということにある。暴れちゃった人が隔離室に連れて行かれるのは、暴れて自分や他人を傷つける恐れから守るため。一人の部屋で休息をとり、刺戟を最低限にし、ちょっと落ち着いてもらうため。

患者の隔離について、精神保健及び精神障害者福祉に関する法律第三七条第一項の規定に基づき厚生労働大臣が定める基準は次の通り。

(1)患者の症状からみて、本人または周囲の者に危険が及ぶ可能性が著しく高く、隔離以外の方法ではその危険を回避することが著しく困難であると判断される場合に、その危険を最小限に減らし、患者本人の医療また保護を図ることを目的としておこなわれるものとする。

(中略)

2 対象となる患者に関する事項

ア.他の患者との人間関係を著しく損なうおそれがある等、その言動が患者の病状の経過や予後に著しく悪く影響する場合

イ.自殺企図又は自傷行為が切迫している場合

ウ.他の患者に対する暴力行為や著しい迷惑行為、器物破損行為が認められ、他の方法ではこれを防ぎきれない場合

エ.急性精神運動興奮等のため、不穏、多動、爆発性などが目立ち、一般の精神病室では医療又は保護を図ることが著しく困難な場合

オ.身体的合併症を有する患者について、検査及び処置のため、隔離が必要な場合

隔離というのは患者さんの自由と権利を、安全のために一時的に奪う処置なので、最終手段である。厚労省の基準にも、隔離以外に手段がない場合という文言が強調されて表現されている。

隔離室の形は病院によるが(いろんな隔離室を紹介した本はけっこういろいろ出されている。三宅薫 著:「行って見て聞いた

精神科病院の保護室」とかは写真がたくさんで面白い)大体二重扉、いずれも病院スタッフにしか開けられない鍵がかけられていて、窓にもスタッフにしか開けられない鍵がついている。ものは最低限(荷物はほぼ入れられない。シーツさえもない。ベッドとマットレスとまくらとタオルケットくらい。荷物による暴力行為や自傷のリスクを避けるためである。人はコップでガラス窓を壊したりシーツで自殺することもできる)とにかく何もない。あ、トイレがある。便器だけ。ゴミ箱もない。テレビもねえ。ラジオもねえ。

情報に溢れている社会に生きる現代人が、こんなに何もない場所で、自分では開けられない鍵で閉じ込められて、どうなるか。つらい。ひたすらつらい。退屈。孤独。ときどき医者や看護師が見回りにくるけど、そうちょいちょい来られるもんでもない(WHOの規定では一五分ごとに観察することが決められている)そしてなんとか孤独をまぎらわせようと独り言や百人一首を口の中で呟いてみたり歌ったりなどする人もいる。まあそれだけ、刺戟のない環境なのだ。

ここまで読んで、興味を持った人、挙手してほしい。そして挙げた手をそのまま背中に回し、下から背中に伸ばした反対の手と、背中で手つなぎができるか試してほしい。できなかったお前はもう少し柔軟性を鍛えなさい。ちなみに私はできない。

話を戻そう。何もない一人の部屋でじっとしていたい、と思ったことがある人は年々増えていると思う。そのはずだ。外的刺激の一つあたりに含まれる情報量の平均はここ数年のテクノロジーの発達によって激増しており今もこの瞬間も激増しつつあるのは、あなたたちのお手元の端末をちらと見ていただければおわかりであろう。今はどこにいたって情報に触れられる。触れざるをえない。ここでいう情報とは、ニュースや文章などの内容をもつものから、他者の発言や存在など形をもたないものまで幅広く指し示す。そろそろ、脳が疲れる頃なんじゃないか、と思う。癒されたい、と思っても、こんどは情報の氾濫に疲労した現代人のもとへ、さまざまな癒しが情報としてやってくる。

そろそろ頭痛くありませんか?

隔離されてみたいですか?

では、まずは自分でやってみましょう。

これが本日のテーマ、「自己隔離のススメ」である。

自己隔離ってどうやるの。と思っている人は多いだろう。だって初めて言ったもん。でも簡単。ただ、自分にとっていちばんうるさいなあと思う情報と、いちばん執着してしまう情報をいくつか選んで、それらから離れた場所へ行って過ごすのである。

例えば、人間関係にもまれているひとは、誰にも会わない時間を七十二時間くらいつくってみる。携帯ももたない。

あとは「音」のない場所へ行く。住宅街の公園なんかは時間帯によってはとても静かだしお金がかからなくていいね。それじゃ隔離っぽくない!という場合、お金遣ってもよければビジネスホテルに泊まるのはおすすめです。作家たちが缶詰をするみたいに、いつもと違うところ且つ何もないところに行ってみると思考がスッキリしたりもします。

物書きしている人はペンとメモだけ持ってホテルに泊まってしまうのもあり。何もない場所で思いのたけをメモにばんばん書いていくと新しい発想が掘り出されてくるよ。メモは大きめのものがいい。ふつうのB5ノートとか、小さくてもA5くらいとか。遠慮なくばんばん書けるらくがき帖もいいね。本を一冊だけ選んで持っていく、みたいなマイルールをつくると、その本一冊と自分自身だけに意識を集中できて、とても深く思い出に残る読書体験ができるのでそれも楽しい。

音楽もいっそ聴かないとか、CD一枚だけ持っていくとかをしてみる。しばらく音楽をオフしたあとに、三日ぶりとかで、そーれ!って解禁するときの気持ちよさは、惰性でいつも耳にイヤホンが入っているけれどなかなか音に集中できないみたいな人にはぜひ体感していただきたい。

以上にあげたのは一例であり、各自それぞれ浴びている情報量と種類も異なると思うので、「こんなに制限してさみしくならないかな」と不安になるぎりぎりあたりをうまく選んで試してみるとよいと思う。

刺戟をほんとうのほんとうに最低限にしたときに見えてくる自分の思想、本性、欲望、過去、未来、などなど、見てみたくはありませんか。自傷他害のおそれがなくても、埋もれっぱなしではせっかくの原石も変質し損なわれてしまう。

私の敬愛する(本連載では引用・参考文献として常連である)中井久夫先生も、とくに看護師長などの管理職の人が「完全に一人になれる部屋」は必要だと言っておられる。管理職って上からも下からもどかどか言われまくるからね。「ひとときの“ひきこもり”は自分をよみがえらせる力があります。嫌人権を行使した人で、ひきこもりになった人はいませんでした」と、医学書院「こんなとき私はどうしてきたか」(‘〇七年)に書かれている。

ひとりの時間はたいせつにしよう。ひとりになりたいと思うことは異常ではない。むしろひとりにならないとわからないこと、ひとりになって初めて体験したり考えたり気付いたりすることがある。

なにもしなくてももともとひとりだったよ、という人は、たぶんひとりの時間が少なかった人よりもたくさんのことを知っているし、たくさんのことを楽しんできたはずだ。それはその人自身の個性になり、財産になる。

さーみんなで、やってみよう。自己隔離。

※自己隔離どうやったらいいかわかんないよというかた、趣味趣向をいくつかアンケートした末にアドバイスを受け付けますので、そにっくなーすまでご連絡ください。

酔っ払いバタフライ

そにっくなーす率いる「酔っ払いバタフライ」2014年5月の文学フリマ東京から活動開始。看護師のほかに、バンドマンやら料理のうまいハリネズミやら乙女男子やらセンスいいたぬきやら天才デザイナーやらが属している。本は下北沢クラリスブックスにて委託販売中。

twitter:@sweetsonicNs

6 minutes ago

ウサギノヴィッチ

第2場

スクリーンに

『8月8日 午前3時37分 @某ファミレス』

店員さんを呼ぶチャイムが鳴る。

女性店員「はぁい、少々お待ちください」

明転すると、香川新一と多沼工事が

テーブルを挟んで座っている。

多沼はタバコを吸っている。

香川「なにかいいことないもんかねぇ?」

多沼「いいことって?」

香川「なんかいいこと」

多沼「抽象的だな。ははっ(タバコの煙を吐く)」

香川「お前、なにかないの?」

多沼「俺?」

香川「そう」

多沼「俺は、ないな」

香川「なんだよ、その言い方」

多沼「そうだな、あえてそう言っている部分があるな」

香川「だよな。じゃないと、俺のところに来ないよな」

多沼「そんなことないよ。何にもなくても行くよ」

香川「気持ち悪っ!」

多沼「ははっ、お前、面白いなぁ(タバコをもみ消す)」

香川「なにかあるんだろ?」

多沼「まぁ、ネタは持ってきているよ」

香川「それは、何だ?」

多沼は鞄の中から文芸誌を取り出す。

多沼「これだよ」

香川「なんだよ、文芸誌じゃん」

多沼「そう、これに面白いのがあるんだよ」

多沼は文芸誌のページを捲って、香川の前に出す。

香川「新人賞の審査の途中経過じゃん。俺はこれ出してないんだよな。10月の頑張ろうと思ってんだよ。で、なに? お前の名前でも載ってるの?」

多沼「違うんな」

香川「違うのかよ!」

多沼「俺じゃない」

香川「じゃあ、誰だよ?」

多沼「よく見ろよ」

香川が多沼から文芸誌を取り上げて見る。

多沼「よく見ろよ。そして、驚け」

香川「あっ!」

多沼が笑う。

香川「えっ? マジか?」

多沼「驚いたか?」

香川「本当かよ?」

多沼「見つけたか?」

香川「見つけたよ」

多沼「なに見つけた?」

香川「Twitterでフォローしてる、熊野敬一郎さんが二次で落ちてた」

多沼「そこかよ!」

香川「そこじゃないの?」

多沼「違うねぇ、違うよぉ、第一、俺はその熊野さんを知らないし」

香川「じゃあ、どこだよ?」

多沼「三段目の右から九番目を見ろ」

香川「おぉっ!」

多沼「見つけたか」

香川「見つけたよ」

多沼「誰を見つけた?」

香川「久遠寺久兵の名前があった!」

多沼「そうなんだよ」

香川「すごいな!」

多沼「すごいだろ?」

香川「すごい!」

多沼「その反応が欲しかったんだよ」

香川「これはすごいな。久遠寺の最終選考に残ったのはすごいな!」

第2場 続く

Pさんぽ

第21回

Pさん

神話は作れる。しかしそれは今「物語」をつむぐような方法によってではない。それでは神話を作ることはできない。集団の力が必要となる。それが必須なのか一つの力としてなのかはわからないが、集団と集団とが対立し、それを何らかの形で解消する為には神話が必要となり、その力によって神話は出来上がる。神話は人が生きる方法をしめす。神話は善悪を作り出す。神話が発生する淵源が善悪の彼岸というわけだ。神話によって描出された「この世界」を、わたし達は、一歩一歩、歩く。歩く度に世界は更新される。足裏が踏まれるこの感覚は一つとして同じではない。灰色の神話を信じた者は世界が灰色にしか映じないがそこに彩りを与えることは出来る。それが神話の役割だ。

神話は作れる。かわいいは、作れる。

ある作家が、作家が神話に対する態度は四パターンに分けられる、というツイートをした事がある。それぞれ「神話に対して抵抗・嫌悪感があるか/ないか」そして「神話を剽窃(書き換え)するか/しないか」によって分割するのだが、分類方法とその精確性はどうでもいい。神話に対して嫌悪感のある作家がどんなにそれを回避しようとも、別の形で回帰してくる。神話に対して無防備に向き合える人間が、神話を剽窃するのではなく、その中で書くことによってしか、物語は書き得ないという結論だったと思う。ツイ消しによって、当該ツイートはこの世から消え去った。

「ぇ次にぃ、ピエール・ルジャンドルの『真理の帝国』に移ります。みなさん、テキストを開いて下さい。

ぇあなた達はぁ、腐敗菌に侵されたぁ、柑橘系植物のぉ、果実ではないんです! だから、理解出来なくても、投げ出さないようにしましょう。はい。こらそこ、早弁しない。

同214ページに、こうあります。

ローマ法の歴史は、物語機能あるいは幻影的な性質の純然たる現前を介して、独得の仕方で神話一般の問題を明るみに出している。ユスティニアヌスの法典は、註釈されるより前からすでにそこにあり、合法的真理という形でただ(傍点)そこにある(傍点終わり)だけで、〈法〉に関する起源の真理を現前せしめている。……

はい。えー、全ったくわからないですね。

次に、215ページに移りますが、少しはしょります。

バッハオーフェンが「母権論」において主張していた「母権」と「父権」の完全な分離は、ローマ法の歴史と関わっている。真実と嘘の区別のない、「口頭で言われたこと」の全てが神話である(「それが真実だった」「いや実はウソだった」という言説が全くの無効になる地点、こそが神話の立つ位置であるという意味ですよ)。

間違えました。今のは217ページの梗概ですね。

216ページには、こうあります。

これでわかるように、〈法〉の起源の問題は神話的な問いを提起するが、この問いは、真実と虚偽の区別が流動的になる水準、つまり通常よりは複雑な水準に立てられるのだ。

はい。全くわからないですね。

(続く)