崩れる通信

「崩れる本棚」創作コンテンツ用のブログです。

崩れる通信 No.23

ハローこんにちは。崩れる通信だよ。

一発目そにっくなーす「精神科ナースが命を狙われた話」第6回

二発目西田俊幸「世界一面白いSF小説」

三発目Pさん「Pさんぽ」第24回。

一月も終わりですね。正月気分を吹飛ばすメチャメチャ文章を読めぞかし。

精神科ナースが命を狙われた話

第6回 グランジナース生きる

そにっくなーす

@sweetsonicNs: 『異常な興奮を求めて集まった、七人のしかめつらしい男が(私もその中の1人だった)態々其為にしつらえた赤い部屋の、緋色のびろうどで張った深い肘掛椅子に凭れ込んで、今晩の話手が何事か怪異な物語を話し出すのを、今か今かと待構えていた』(『赤い部屋』江戸川乱歩

これツイットしたけど、これって毎月オープンマイクやってる渋谷のルビールームのことかなとか思ったりなぞする。

今日ポエトリーのイベントを見に行った。明日ライブ。今日締め切りの原稿。今月締め切りの原稿。原稿原稿言うの、自分でやると恥ずかしいからやらんきまりだったんだけれども、とうとう書いてしまった。

やっつけでもムラっ気でもいいからなんでもいいから続けたい、息をし続けることが価値になるし勝ちになるから、といってもなにと戦って勝ちたいのかもわからないし、そもそも勝ち負けなんという明快すぎる雑な価値観で生きているからすぐに人に順位つけて落ち込んだり人を見下したり見下されたりなどする感じがするのだと思う。

しかしともあれ続けることには価値がある。師匠がそう教えてくれたのである。途中でやめるのなんかいつでもできる。

趣味を手抜きしてどーすんだよ、趣味なんだから全力でやるに決まってんだろ、と、かつて昔少しだけ一緒に生活していた人が言っていた。力加減は絶妙をゆかなければならない。完璧を求めていつまでも出せないんじゃ腸の動きだって止まってしまってあっという間にイレウスを起こしてしまう。

曲がりなりにも医療に関わるコラムなど書いているが、たぶん患者家族や患者本人をやってる人のほうが、知識があるだろう、とか、思うことがある。ナースなんて毎日やることは決まっている。一番頭が良かったのは国家試験を受ける直前から数ヶ月くらいのもんで、使わん知識は当然だがどんどんなくなってゆく。

そして注射してるときだけが楽しい、みたいな気持ちだけが自分を看護師でいさせてくれる。それ以外はなんてこともない。ていうか、医療者というものの立ち位置に期待をしすぎていた。ナースでありながらナース的なものにフェチを持っていたから。

このフェチが作品の助力にはなれど、臨床面では邪魔になることの方が多かった気がする。自分で意識していない一生懸命なときのほうが、看護師として看護師だったのだ。

文章がちっとも書けない。完全にスランプしている。そしてポエトリーのイベント。血が出そうだった。どこからとは言わない。生きる価値は自分にはないし、もう活動なんかやめてしまいましょう、と、いいライブを見るたびに思わされる。鳥の雛だったら真っ先に死にそうなほどの、変な空気の読み方をするので、子供の頃から損ばかりしている。いやしかし26年間幸せだったし随分とこずるいこともしたと思う。ただ坊ちゃん風に言いたかっただけで。全部ラッキーじゃなきゃできなかったことで溢れているから。

言いたいのは"普通でしかなかったということ"で、この言いたいことさえも普通でしかなさすぎて、ほんとうは何が言いたいんだってことがわかりにくいだろうが、私は誰にでもできるようなことしかしていないということだ。たぶん誰だってある程度そうであるしそうであって欲しいと思う。社会がきちんと円滑に回るためには、"この人にしかできない"なんてこと、できるだけ少ない方がいい。

個人のやりがいと幸福を考えるのであればこの限りではないし、伝統や経験のなせるわざ、個性は、見えないほど小さかったとしても完全に潰すことなんかはできないレベルで存在している。

朗読みたいな、思っていることをありのままにさらけ出すことができ、それが愉しみみたいな何らかの利益をもたらし、そのさらけ出し方に確固たるお手本がない場合においては、その個体差はがっつり広がるように見えながら、演者でなくても相手を知らなくても理解ができ共感ができる。ということは、ある種の思想体系の類似性はどんな人間にもベースとして含まれているともいえる。

基本的に、医療はだれがやっても同じようにむらなくやれるものであるべきだ。看護はそこに少しだけ、やる側の個体差をゆるすあたたかくてゆるいポエジーが含まれる。

決まったことをむらなく決まったように続けるのなんか苦手だし、いつだって均等に塗れはしないけれど、人間がやってるんだからと自分を慰めて、続けていきたい所存である。

酔っ払いバタフライ

そにっくなーす率いる「酔っ払いバタフライ」2014年5月の文学フリマ東京から活動開始。看護師のほかに、バンドマンやら料理のうまいハリネズミやら乙女男子やらセンスいいたぬきやら天才デザイナーやらが属している。本は下北沢クラリスブックスにて委託販売中。

twitter:@sweetsonicNs

世界一面白いSF小説

西田俊幸

しかし、台東区根岸にある確実なUFOの発着場に到着したのは午前九時の九十分前をゆうに回った後のことだった。

それから、ウィダーインゼリーみたいな高濃度栄養食を、ダクトみたいなところから受け取り、銀色のアルミホイルみたいのに包まれて、円錐形の光を浴びて上空に持ち上げられていった。

釣り針の先には返しがつけられていて、一旦獲物に刺さったが最後、簡単には抜けなくなっている。魚の唇の辺りがべろべろにめくれているのは、その返しのついた釣り針のせいであって、決してあんかけチャーハンを急いで食べたからではなかった。

UFOの中の廊下は恐ろしくなるくらい長くそして清潔で、金色に輝いていてまるで産道のようであった。

産道を通るときの経験を、産道を通ったことのある人間に聞いたからこれは確実に確かな情報である。それ以外、やりようがないといっても過言ではあるまい。

それから、滾々と湧き出る透明な黄色い液体をベースとした液体空気を吸いながら全身皮膚まみれになりながら黄道の黒い赤白帽を渡り近づいていくと、なんと、そこには、……

そこには、なんと!

ここから下巻の内容に移るのだが、上巻と下巻でそれぞれ大森望山岸真の解説がどちらにもついていることには、トレパネーショられた私にも、驚きを隠すことができない。

まるで、ベストセラーが約束されているみたいではないか! 口ほどにもない。

それから、繰り返しにはなるが、光速度に限界まで近づいた航行においてはまだ、われわれの宇宙の感性からそれほど離れたものではない。船の中の時間が外宇宙とズレが起こる。そして、船の形は扁平となり、「雪の宿」じみた、おせんべい型の航行船に変形すると表現して差し支えない、その場合、ニュートン力学からは遠く離れるけれども、実数の範囲内で説明がつくものと予想されているのだが。

光速度を超えた移動速度の場合、その物質自体や、船の中の時間の進み方がどうなるのか、現在の科学力のみでは、想像するしか手がないのだ。

原書では続きが書かれていて翻訳は来春のあたりになる。(おわり)

西田俊幸

会社員をする傍ら小説を書く素人。「文學界新人賞」に毎年原稿を送りつけ、落としている。

Pさんぽ

第24回

Pさん

母はさらに続けた。母の頭髪が高温多湿によってボワボワとしてメデューサみたく見えたのは二人の気のせいだった。

併し寝食を忘れてというのは嘘に決っている。寧ろ有効に仕事をする為にもその仕事も終わりに近づけて行く時間に気付かずにはいない筈であってそのことを示す材料にもこと欠かない。西田幾太郎は「善の研究」で現在というものを説明してピアノに熟練したものがピアノを弾いている時と同じく熟練した登山家が山を登っている時のことを挙げている。何れも時間、呼吸、拍子を無視しては出来ないことであってこれは時間が人間の意識の上でもその人間と一体になった典型的な例である。

あと、

一般には歴史の前に神話があったことになっている。併し前にあったから嘘だというのも奇妙な論理であって神話に認められる性格の一つはそこで語られていることが緊密に結び付けられた一つの全体をなしていることである。これは同じ時間の流れのうちにあればそうならざるを得ないことで歴史の前に神話があったというのは歴史の典型が神話にあるということに比べれば殆ど意味を失う

。前に言ったことともつながるけどね。

副将の女は頭髪を体中に巻いてとっくにネズミに変化していた。耳が丸く黒く、シルエットだけで見れば、三つの円を組み合わせたかのようだ。(続く)