崩れる通信

「崩れる本棚」創作コンテンツ用のブログです。

崩れる通信 No.28

明けましておめでとうございます。崩れる通信の通信役のPさんという無性に腹が立つ米泥棒です。

今年は非常に才覚と始まりました。繰り返し、飛びましょう。

一作目:憂野「ホニャホニャプーの土」(連載第4回)

二作目:yoshiharu takui「音楽とラジオと音 若い人のアナログレコードブーム、というけれど」(連載第5回)

三作目:そにっくなーす「精神科ナースが命をねらわれた話 妄想の回 その2」(連載第7回)

以上。

ツイッターでも告知しましたが、今までエッセイのみ募集していた「崩れる通信」ですが、小説の書き手を募集しています!!

もともと、創作物を発表する場としたかったので、もっと早めに募集しとけばよかった感が、けっこうありますね。

それでは。バイチャ!

ホニャホニャプーの土

第4回

憂野

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そこの土は不自然にがたがたしていて、僕は近くのベンチから眺めていたんだけど、とても不安定な気持ちになっちまった。土の中はひんやりしているけれど、心地がよいなんてとてもじゃないが言えない。みみずはおいしいけど、仕事は疲れる。吸われる、循環する。茂る。全身の筋肉を使って動く。尺取虫を食って飛びさると軽トラックが眼下を通る。フロントがへこんだ軽トラ。ちくしょう、昨日の夜あんなもん轢いちまったせいで、ちくしょう。駆動。ゆれるな、道路が舗装されていないからかな、ひたひたひた、ゆれる度。ヘム鉄がどんどん酸化。

シャベルをぶん投げた。

腐ってぐずぐずになった、空いた土に流れ込む水、近くに池。鴨の糞がこびりついたコンクリート。ばさばさばさ。表面。

鹿の肉は確かにおいしかった。鍋。ぐつぐつ。ガスが燃える。赤と白が目立ったかたまりが一定の色におちついていく。

土が重い。運動公園なのだから運動しようと、ジョギングコースを走る。弾力のある赤い道は環状だがスタートとゴールが設定されている。

殺した。刺さったナイフの感触。確かなもの。飛散した魂。解体。大ぶりの刃物。骨、肉、加工。鹿だ。鹿だ。鹿。作りたかったものはこれか?コンクリートに腸内にたまっていた糞がこびりつく。足。重なり滑る。頭を強く打つ。どくどくどくどくどくどく。時間経過。ヘム鉄は酸化して黒ずんでいく。ばりばりの床。鹿は駆け出す。

骨の雨。尖った部分の骨密度は限界。刺さる。頭。貫く。地面に届く。

みみずが食べた土。みみずは栄養をこしとり、糞として体外へ排出する。うねうねうねうね。土。地面。人間が地面を踏みしめる。ぎゅ。時間経過。糞が土に還っていく。みみずが食べる土を。みみずの糞をみみずが食べる、永久機関。違う。栄養の残量が減っていく。みみずの運動に消費される栄養。土の栄養はこうしていつかゼロになる。補充がなければ。

もぐらは漢字で書くと土竜で、土の中の竜。餓死してしまうもぐら。仕事は過酷でエネルギーが足りていないから餓死。天敵のいない土中。

水が循環する。土中から上昇して蒸発。

こども、幼児が勘違いをしている。みみずと尺取虫は別種の生き物だのに、勘違いしている。学者が何度説明してもこどもは耳を貸さない。学者は頭ががんがんがんがんキてかーっとわーっと、泣き叫ぶ。幼児を殺す。幼児、死ぬ。あらかじめ用意しておいたスコップ。やわらかな、土。

骨の雨は鷲も鷹も鳶も関係なく、突き刺して突き刺してぶち殺して落下。コンクリートが赤い。建造物の屋根は粉々だ。尖った先端がぐちゃぐちゃにしていく。死骸にも生物にも関係なくぐちゃぐちゃにしていく。

キキーッ!!ドガシャーン!!質量。

ハンドル、きる。ブレーキ、踏む。ブレーキ痕が鳥の糞がこびりついたコンクリートに。軽トラックのフロントはぐしゃぐしゃ。確認。鹿。積む。

道路を舗装しようとすると人が死ぬ。ばれてはいけない。

人が死んでいた。僕は拾った。

死骸を埋めにきた数人。全員別の死骸を持っている。袋。あっどうも。今月二回目ですね、なんて。別段かかわりのない数人。たまたま死骸を埋める場所が同じだった。土中、意識の混合物。表面を歪める。

血液の水分が蒸発して骨がうまれる。遺伝子組み替えではありません。

土に還ったすべての生物。みみずは繁栄。もぐらも繁栄。毒で死ぬ。みみず以外。栄養の補充ができなくなる。土の栄養分はなくなる。みみずが死ぬ。栄養になる。やがてゼロになる。なくなった。土しか。水は骨。

鹿。怒る。時間遡行。土からうまれるすべて。もとどおり。

僕はベンチに座って平らな地面をじっと眺めていた気がする。

憂野

たぶん人間。

音楽とラジオと音

第5回 若い人のアナログレコードブーム、というけれど

yoshiharu takui

若い人にも「アナログレコードの魅力」が見直されて、新曲をレコードで発売するアーティストも増えている。"

ここ1年から2年ほど、いろいろなところで、この話題が取り上げられている。

渋谷のタワーレコードに行ってみると、確かに新品のレコードがたくさん並んでいる。レコードプレーヤーも、1万円程度で手に入る。

レコードの値段は、アーティストやレコード会社によって変わってくる。CDより1000円程度高いものもあれば、300円程度しか違わないものもある。

新品で買えるレコードは、CDと同じようにデジタル記録で録音されて、最後にアナログのレコード盤へ移している。

少し話がそれてしまうが、最近ずっと考えている言葉がある。

3月12日、よき友達と2年ぶりに再会して、家に呼んで一緒にくつろぎながら、音楽を聴いた時の言葉だ。

普段から、イヤホンで音楽を楽しんでいる友達は、スピーカーから流れる音楽を聴きながら、こう話していた。

「アナログとデジタルの違いがよくわかんないです」

もともと、音はマイクで収音されるまではアナログである。

しかし、そのままアナログの形で記録したり増幅するとノイズが混入したり、ひずんだりし、段を重ねるごとにそれが増大する。

ところが、デジタルにして符号化すれば何段重ねても、コピーを繰り返しても問題は少なく、しかも欠落した部分を元通りに修復することさえできる。

デジタル技術はアナログでは不可能な敷居を超えるために使われているのだ。

しかし、アナログからデジタルに変換(A/D変換)し、最後はD/A変換してスピーカーをドライブする必要があり、

回路内でもアナログとデジタルは至るところで手を結んで融和して用いられている。

敵ではなく重要な味方同士なのである。そして、デジタル技術が進歩し、信号の純度が上がるほど、混在するアナログ技術も高度化しているのである。

(春日二郎『オーディオ昨日 今日 明日』(2006年)より引用・抜粋)

※音響機器メーカー「トリオ」(のちのケンウッド)、「アキュフェーズ」の創業者

録音された音楽、音の質でよくいわれる「アナログとデジタルの違い」。

それは、文字盤と針で時刻を知るアナログ時計と、数字を直接読み取って時刻を知るデジタル時計のように、目に見えるものではない。

携帯音楽プレーヤーとイヤホンの組み合わせから、放送局や音楽スタジオの機材まで、多くの「音を扱う機械」の内部では、

その両方が無くてはならないものになっている。デジタルで記録された音をアナログに戻してから、スピーカーやヘッドホンを動かすことで、

ようやく「録音された音楽」が人のもとへ届けられるからだ。今でも互いの技術は、それぞれの進化を続けている。

このことには「アナログとデジタルの違い、どちらが良いか」ということ以上に、大切なことが隠されていると思う。

CDが身近になったあとのレコードとプレーヤーは、「レコードをよく知っている大人」のものだった。

それは、左右の溝に記録された音声を正確に読み取る、部品の精度の高さ、音色の微細な違いに魅了されて、探究と出費を惜しまない愛好家であり、

レコード全盛期の1950年代のジャズやソウルミュージックから歌謡曲までを、1曲の音楽のように繋げ、フロアで鳴らす、クラブDJのものだった。

ところが、最近はそれに加えて、幼い頃からCDが身近にあり、レコードの全盛期を知らなかった年齢層も、レコードを買い求めるという。

僕は「レコード」というと、小学生の頃に愛読書だった、学研の『学習ずかん百科』のことをいつも思い出す。

1970年代初頭に発行された図鑑には、音楽の授業で聞くようなクラシック音楽や、新幹線や蒸気機関車の音を収めたレコードが付いていた。

それを聴きたくて、レコードプレーヤーのある親戚の家に行ったこともあった。1990年代終盤、平成10年か11年ごろの話だ。

2000年、5年生で放送委員になり、ふと放送室の棚を開けると・・・

「おお!“シューベルトの軍隊行進曲”のレコードだ!聴きたい!!」

11歳の誕生日には、プレーヤーを親にねだった。学校からそのレコードを借りて、幼い頃から好きだった、シューベルトの「3つの軍隊行進曲第1番 ニ長調」を聴いた。

15~6年前、今のアナログブームは想像もできなかった。変わった子だと言われようと、気にしないで楽しんでいた。

11歳の誕生日にプレーヤーをねだった小学生が、数年後、『Jupiter』と共に現れた平原綾香の歌声と音楽に、深く心酔した。

平原綾香の音楽や、もっとたくさんの音楽を、ミニコンポより良い音で聴きたいと願うあまり、購入したケンウッドのスピーカーとアンプ、2つの置き場所に注意を払うようになった。

そして、26歳の今、10万円弱の費用になってしまった。といっても、一気に10万円を使ったわけではない。

5年間を通して、生活を犠牲にすることなく、少しずつ買い揃えていった。そのなかで、レコードプレーヤーも含めた音響機器のことを、深く知る機会を持った。

いかに優秀なレコードプレーヤでも、外部からの振動に影響されやすいと、落着いて音楽を楽しむわけにはゆきません。

交通機関による振動で雑音を生ずるとか、レコードプレーヤの近くでは人も歩けないとか、再生用スピーカの音を大きくするとピックアップを振動させて、

いわゆるハウリングを生じたのでは、せっかくの高忠実度なピックアップもその性能を発揮できないことになります。

最近のように、レコードがステレオ化され、それにしたがってピックアップも、上下左右どちらの方向の振動をもピックアップできるように作られていますので、

外部から振動がどの方向に加わっても、再生音に悪影響を及ぼします。(中略)

最近のレコードはビニール系の材料で、厚さも薄く、また軽くなっています。このように軽いレコードで、しかもそりがありますと、

外部からの振動がレコードに伝わったときレコードが振動しやすくなります。

このために、不安定な音質になったり、振動雑音が入ったり、またハウリングを起こしやすいことがあります。

(山本武夫『レコードプレーヤ』より引用・抜粋)

レコードは、左右の溝に記録された音声を、針で読み取る。静電気で付着するわずかなごみを拾ってしまえば、針に伝わって雑音になる。

また、音声を読み取るために必要な部品、カートリッジやトーンアームも、同じように繊細なものなので、振動にはどうしても弱い。

レコード自身が傷んでいれば、安心して音楽を楽しめないし、レコードの傷みやわずかなゴミがなくても、プレーヤーが安定した場所に置かれていなければ、台無しになってしまう。

さらに、1万円程度で買えるプレーヤーの中には、振動対策がほとんど考えられていない物もある。

このことを全く知らずにレコードを買い、わずかなごみやプレーヤーの振動に悩まされ、2つともやがて使わなくなり「大きなゴミ」になる。

振り返れば、11歳の自分もそうだった。ごみと振動が気になり、1年ほどして「レコードを聴くことに飽きた」のだ。

もらい物だったトリオのプレーヤーも、親が懐かしくて買ってきたイルカのアルバム、サラサーテの「チゴイネルワイゼン」が入ったレコードも、

今なら、とても大事に聴くだろう。でも当時は、そうではなかった。

正しい情報を知らないまま雑に扱い、飽きて捨てられてしまう、そしてプレーヤーもレコードも売れないまま。

これは、聴き手にも、作り手にもマイナスでしかない。

「レコードを大事に聴くには、できるだけ振動や雑音の影響を少なくする」という情報が、どれほど正しく伝わっているか、心配になることがある。

レコードを「大きなゴミ」にしないために、とても大切なことだからだ。

音響機器のことを自分なりに理解して、場所や設置と振動には、生活を犠牲にしない範囲で、自分ができるだけの注意を払うこと。

レコードだけではなく、スピーカーで聴く音楽すべてに通じる。達成できたと感じた時に、わかることがある。

指揮者や演奏家、歌手、そして録音技術者。その人が腕を振るった音楽を、時代の違いを意識せずに聴ける今に生きていることだ。

アナログとデジタルが手を結んでいるおかげであり、レコード、CD、配信音源でも変わることはない。

アナログブームの中でレコードと出会い、音楽をより大切に聴くようになった人が、この大きなよろこびに出会うことができれば、とてつもない幸せになる。

参考書籍

春日二郎『オーディオ 昨日 今日 明日』

2006年4月、文芸社

山本武夫『レコードプレーヤ』

1971年8月、日本放送出版協会

精神科ナースが命をねらわれた話

第7回 妄想の回 その2

そにっくなーす

前回の続きである。初めて読む人は、前の読んで理解してからね。

さて、前回、

ある種の妄想は願望から、またある種の妄想は不安から生じる。願望も不安も同じようなものとすれば、妄想の源泉がより深く見えてくるであろう。ありもしないものを脳味噌がつくりあげ、そのありもしないものにふりまわされるのだ。これは病気と診断された人に生じるものとされているが、「嫌われていると思いながら接する」というイメージをもつことで、疾患をもっていない人にとっても、実感としてわかりやすくなるのではないだろうか。

といった結びで終わった。

ここで不安が妄想をよび、妄想が不安をよぶという一つの輪に注目する。臨床や生活の場で、いったん飛び出してきてしまった妄想や不安をどういなすかは、自分らしい生活を送るうえで大切なキーとなるであろう。

★単なる不安は想像力をこやして、もうすこし頭の中でパラレルワールドを構築していくと★

予期不安は実は良き不安でもある(いってー!飲み終わった缶ビール投げないでよ!ここの観客はおやじギャグに厳しいなあ)。不安は生存本能であるので、舌とかと同じように生きものにはかならずついているもの。強すぎて生活に支障をきたすレベルの不安は、とりあえず薬とかで減少させるという方法がおもにとられるが、ある程度の不安は自分が自分を守るために生んだボディガードだと思えると楽に生きられるだろう。

ただこのボディガード、ちょっとアクが強い性格であるために、うまく利用しないとあっという間にこいつに腕を噛みちぎられてしまう。予期不安という名のボディガードは扱いが大変なのだ。 自分に予期不安がたくさん生まれてしまったとき、想像力をもうすこし使ってみようと試みた。予期不安はそのままにしておかず、生まれたぶんだけきちんと数えて、ひとつひとつ吟味し、その先へもっともっと考えを及ぼしてみる。不安は「こうなったらどうしよう?」というところから出てくる。どうしよう?こわい、こわい、とそこで不安に飲み込まれず、もっとその先を考える。とりあえずこうこうこうなるかもしれないからこうしてみよう。そうしたらあら不思議、不安でいっぱいの臆病者だったわたしが、アイデアマンに大変身!こらこらそんな簡単に言うんじゃないよ、そんな簡単にうまくいくならみんな苦労しないよ。ええ、そりゃそうだ。ということで、想像力を駆使していくことを試してみたら、仕事はバリバリできるようになったが心はとっても疲れた。

妄想や不安にとらわれてどうにもならなくなったら、しょうがないから逃げるか、思考をいったん停止させて、機械になりきって、やるべきことだけちょちょっとやってしまうのもいいのかもしれない。失敗したって死ぬわけでもない。世の中にはいろんな世界があり、いろんな逃げ道がある。

★考えすぎを封じ込めることで生じるメリット★

気持ちは抑えずにどんどんありのまま出していくことが求められるレリゴーな現代であるが、爆発させてはならない感情を状況をみてぐっとおさえる、不安をぐっと捕まえてそれ以上ふくらまないようにする、などの行動は静穏な社会生活に必要なものであるといえる。考えすぎ不安妄想などの頭が余計に働き過ぎちゃっているときは、それを一旦頭の中の黒い箱にどんどん詰めてしまうことは有効であるといえる。封じ込めることに成功すれば、多かれ少なかれその妄想で苦しむ時間がちょっとは減る。

ただ、妄想や幻聴が大きくて、不安で、とらわれそうになったときは、周りの人に「今こういうことを考えて(聴こえてきて)いるんだけれどどう思う」などと発露することは大切である。

考えすぎをふうじこめる方法をいくつか紹介していこう。

1、薬

リスパダールなどの抗精神病薬……眠くなる。でも眠れる眠さじゃない。脳味噌を重たいとろみ粉でどろどろにされているかんじで、眠っちゃだめだ、みたいな思いにさせる。起きていようとするのに必死で、不安なことだとか後悔だとか焦りだとか昔やらかした失言とか常に頭にあったもの、頭を無駄に忙しくさせていたもの、について考える余裕がなくなる。一旦ラクになる。

ワイパックスソラナックスなど各種抗不安薬……あんまり魔法みたいにドンと効く実感はない。気付いたら不安を忘れているなんてこともある。

2、集中作業

自分のキャパをほんの少し超えるものをチョイスするとよいと思う。いったんはじめてしまったら、終わるまでほかのこと何にも考えられなくなるような作業を、「なんとなく」始めてみる。いやでもちょっとふんばって。こういう、考えすぎを封じ込めるための対処行動をとるときに、その結果を期待しすぎたり気合いを入れすぎたりすると結構がっかりすることが多い。軽い気持ちで、とりくむことが大切。作業療法でも、編み物などの手芸、革細工、パズル、漢字練習、おとなのぬりえ、などその人のできるレベルに合わせた集中作業がそろっている。

読書なんかもできる人には有効な方法。本を読んで本の世界にどっぷり浸かっている間は、現実や頭の中のいやなことを考えずに済んでしまうなんて経験がある人も多いと思う。ただ、あまりに頭の中が不安や妄想で忙しいと、読書ができない、文字を追えない、という患者さんも多い。

3、からだをうごかす

頭の中がたいへんになったら、頭の中でいそがしく立ち働いている血流をなるべく全身へ蔓延させるようなイメージで、体を動かすのは有効である。考えがごちゃごちゃしてきたらとりあえず一旦機械になりきって外に出て、散歩をする。ゆっくりでもいいし早くでもいい。5分でも10分でも1時間でもいい。支度なんか部屋着でいいじゃねえか。それでとにかく歩き回る。そとに簡単にでられない人は、体操をするのもいい。ストレッチは有効。ベッドの上でどうしても起き上がれないのならばもう、寝転んだ状態で手足を動かしまくるだけでもいい。筋トレしちゃうのもいい。集中作業と同じで、少し負荷をかけて体を動かせば、そのちょっとの苦しさで頭の中のことを忘れられる。どうして精神科病院には運動場がないところが多いのだろう。体をもっと動かせばなんとかなりそうなものなのにという症例もいくつかあった。

4、そのままを受け止めるくせづけ

外に出ると人に出会う。話したこともない、とおりすがるだけの人だ。その人が笑う。こっちの調子がよくないときなんかは、そういう他人の笑う声なんかは、「自分のことを嘲笑っているんじゃないか」とか思ってしまいがちである。そう思ってしまうのは妄想や不安が自分に内在しているからであり、裏返すと、こう言っちゃなんだが、自分の「見ず知らずの他人から注目されたい」という深層の意識から生じるものである。自分が注目されたい、自分がオンリーワンになりたいというのはまったく悪いことではない。むしろ多くの人がそう思っている。けれど、必ずしも他人に注目されるわけもなく、どんな派手な格好やパフォーマンスをしていたとしても興味を示さない人はいる。まして、ただ外に出ているだけのあなたに注目し、いきなり嘲笑する人なんているだろうか。そんなにみんな他人を気にしてはいない。そんな余裕ない。みんな各自自分がいちばん大好きで自分にしか関心がないのだから。見ず知らずの他人を見て笑う人なんか、よっぽどの暇人である。そうやって自分に言い聞かせるのって「自分は嘲笑われている」と思い込んでいるときはけっこうしんどいものだが、「嘲笑われている」の「あ」まで思いついた時点で、「あーなんか笑っているな、たのしいことでもあったんだろうか、自分は興味ないけど」にシフトする考えかたをすることができれば外出ストレスはだいぶ減る。

大変難しいことを言うようだが、そういう妄想を増強させる考え方というのは、長年身についた考え方の癖によるものである。癖は癖でしかないので、直そうと思えば長い月日はかかるものの直る。

笑っている=自分を笑っているんだ!

ではなく

笑っている=笑っている 

にすぎないということを自分に癖付けさせると、不安や妄想の増強はある程度おしとどめられる。

根性論を言っているように聞こえるかもしれないがこれは認知行動療法である。

妄想や不安により主観視にかたむきすぎている現状を、ちょっとした客観視が、ヘルシーな思考へ導いてくれるのだ。

※こころをがっつり病んでいるひとはね、つよいんだよ。だからね、どんな風に日々きつい中で工夫して生きようとしているかはね、ほかの病んでない(もしくはがっつりほどには重くないけど、なやんだり病んだりしている)多くのひとが生活のきつさを感じたときのヒントになるんだよ。みんな、そのヒントを拾って強く生きられるんだ。

続く(かも)

酔っ払いバタフライ

そにっくなーす率いる「酔っ払いバタフライ」2014年5月の文学フリマ東京から活動開始。本は下北沢クラリスブックスにて委託販売中。

twitter:@sweetsonicNs