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崩れる通信

「崩れる本棚」創作コンテンツ用のブログです。

崩れる通信 No.34

こんばんは。崩れる通信でごぜえます。

今日も、良質な小説を御用意しております。

防塵マスクを掛け、焼肉の油飛び跳ね防止紙ナプキンを装着し、トレパンを三足履いたうえで、おしょうゆを掛けて、御賞味くださいませ。

一作目、毎度おなじみ! そにっくなーす『精神科ナースが命をねらわれた話』第8回、想像力の話。

二作目、新連載! 少女が出てくる小説。落山羊『やよいと満月』第1回。

三作目、Pさん『とこしなえにゆるいや』。

はやいものでもうよんth。

継続は力なり。

労働せよ、おおいに書け、いたるところに文身を刻めよピープル。

目指すは、じゃがいも。

精神科ナースが命をねらわれた話

第8回 想像力の話

そにっくなーす

どんな気持ちかな。

空が飛べたら。

雨になったら。

魚になったら。

月になったら。

うさぎになったら。

いじわるされたら。

どんな気持ちかな。

ひとりぼっちって、どんな気持ちかな。

想像してみよう、いろんな気持ち。

以上は、ACジャパンのCMナレーションである。ご存じの方も多いかもしれないが、少年がさまざまなものに変身しながら想像の翼をふくらませ、うさぎになったところで知らない猿に帽子をぶん取られて野原でひとり、さびしそうな顔をうかべているものである。

現代の教育現場や生活の現場で、「想像」というもの、各個人のもつ「想像力」というものはどれくらい重視されているのであろう。想像力は大事だ、でもそれは小さい頃の純粋な気持ちのためのもので、心の中のワンダーランドを旅するためのもので、大人になったらつかわないもの、むしろ生活にはじゃまになるもの、という一般的イメージがあるように思える。

かくいう自分も創作をやるし、シュルレアリスムを好み、寺山修司いわく想像力は鳥よりも高く飛べるということなので想像力を「楽しみ」のために使ったり鍛えたりしたいと思っていた。想像力を鍛えようという文脈で検索をかけても、なんか自由にやればそれでいいじゃん的な独特至上主義みたいなものばかりがあがっている。

想像力はどんなときに役に立つか。ひとつは、「想像力」で検索しただけでも出てくる、社会生活をおくるうえで役立つ創意工夫能力の話である。常識をくつがえすための逆転の発想などはいつも求められもてはやされる傾向にあると思われる。

2つめは、人生の愉しみを増やしたいとき。想像力があれば紙とペンだけで世界一周ができる。読書の愉しみはおもに、文字情報から想像力を働かせ知らない景色を泳ぐこと。創作の愉しみはおもに、頭の中にしかなかった想像の世界を形にすること。また、自分が描いた世界を人と交換する愉しみもある。

3つめは、人とのかかわりを円滑化させたいとき。電車の中で席をゆずらない若い人を見て「若いのに譲らんのかいな」と怒るよりも、「もしかしたらめちゃくちゃおなかが痛いのかもしれない」「仕事でものすごく疲れてるのかも」といろんな想像をめぐらせることで人への余計ないらだちや不信感をもたずに済むし、自分自身がとってもラクになる。

想像力のメリットは大きく分けるとだいたいっこんな感じであろう。さて、ここからが本題。想像力が足りないために生じた困難についての話である。

★想像力と精神疾患

単なる不安は想像力の欠如だと(そんなに断言はしていないが)前回お伝えしたと思う。もうすこし想像の羽をのばしてみて、もっとさきのことを冷静に想像するのが大切。こうなったらどうしようやだ!もうだめだ!と崖に自分をおいつめることなく、こうなったらこういう対処が考えられるかな、とその先まで考えておくこと! と。

ちょっと調べてみると、内因性うつや広汎性発達障害の人は将来に悲観的な予想ばかりもってしまうことがあるそうで、うつの人は病気の影響で悲観的になってしまうし、広汎性発達障害の人は障害ゆえにいままでのちいさな失敗体験の積み重ねで悲観的になってしまいがちであるという。

妄想も、荒唐無稽なものでも身近にありえそうなものでも、想像力が欠如(これはもう変えることは本当に困難な本人自身の傾向だったりもする)していることが妄想がこじれる原因のひとつになっているようだ。

精神科医kyupin先生のブログをちらちら見ていると、想像力の欠如にかんすることがいくつか書いてあった。

広汎性発達障害アスペルガー症候群の人が犯罪を行う場合、緻密に計画を立てて、現場の防犯カメラもあらかじめ電源切っておくくらいの周到さがあるのに、ちょっとその場の想像力が欠如しているためにあっけなく現行犯逮捕されてしまうことがあるのだという。いろんな準備の必要性への思考と実践はあったのに想像が足りなかったのでうまくいかない、それは犯罪なんかじゃなくて日常生活のなかでもちいさな失敗の原因となり、広汎性発達障害アスペルガー症候群のひとびとは困難を感じているであろう。

また、誰かがストーカーしてきているようだと言う妄想に苦しみ、その真偽を確かめるために、ヘンゼルとグレーテルみたいにコイン(現金。小銭。)を道にひとつずつ置いていって、あとから通ってきた道を検証しそのコインがなくなっているから「やっぱりストーカーはいるんだ」と確信してしまった患者さんがいたという。小銭なんかストーカーじゃなくてもそこらを歩く人が見つければ拾う人もいるだろうし、ふつうの道なら小銭の存在に気づかなかった人にけっ飛ばされたりとかもする可能性があり、そんなんストーカーがひとつずつ拾っていったという証拠にはならない。でも当人はその状況でそこまで想像しきれないのだ。もともとの想像力不足のせいもあるだろうし、ストーカーがいるのだという着想が怖すぎてもうゆっくり考えていられなかったのかもしれない。症例をブログで読んだだけで私がその人に会った訳じゃないのでわからないが、いろんな状況を想像する力がないとせっかくの「妄想の真偽をはっきりさせるために行動しよう」という作戦が、より妄想を強めてしまう結果になりかねないのだ。

想像力がないから増やせ!はい終了!とはいかないのがこういう話題である。想像力は自分自身の記憶の源泉からわき出るものがいちばんよく働くと思うので、いろんなものを見聞きしたりいろんなところに行ったり、いろんな人の話をきいたり読んだりしてみることは想像力ひいては人間を豊かにする助けになるであろう。

想像ができさえすればそれでいいか、想像力がえらいかと言われたらそうではない。ただ想像力がもうちょっとあれば、らくに生きられるのにな、楽しくなれるのにな、余計なつらい思いをせずにいられるのにな、ということはたくさんあるというだけの話。想像するだけじゃ足りないことだって世の中にはあるし。実際にみたほうがいい景色や聴いたほうがいい音、触ったほうがいい感覚なんかはやまほどある。あとは異和感があったときや対象の人のいないときに想像するだけでは解決しない問題もたくさんある。素朴な疑問は想像してもわからなかったら口にしてみたほうがいい。口にしないでため込まれた「素朴な疑問」たちは、時間が経つと濁ったソウルジェムのように「不信感」につながり、さらなる余計なつらい思いを引き起こす。

参考ブログ:http://s.ameblo.jp/kyupin/

酔っ払いバタフライ

そにっくなーす率いる「酔っ払いバタフライ」2014年5月の文学フリマ東京から活動開始。本は下北沢クラリスブックスにて委託販売中。

twitter:@sweetsonicNs

やよいと満月

第1回

落山羊

片足を引きずって歩く小柄な壮年の男、白ソックス、リュックサック、半ズボン、ポロシャツ、鴨の刺繍がはいったキャップをかぶっていて、顔はしみだらけ、目やにがびっしり固まっていて、近づくとなんとなく汚らしい。そんな男のひとがおしゃれなパン屋さんに入っていくのをみて、森やよいははじめて「ああ、あのひと人間だったんだ」と思いました。なんとなくひとりで生きていけないすがたを見るたび、森やよいは他者が人間であるという感覚をしばしば喪失してしまいます。そのときの森やよいが非人間的であろうとも、その非人間性は森やよいの周囲の人間たちに違和感を与えるほどのものではありませんでした。それが森やよいの生きている社会であり、おまえが生きている世界なのです。

小学四年生の、森やよいはそう思いました。

森やよいは、お母さんにこう言われました「生まれつきの、ひとの見た目や、障害のことを、悪く言ってはだめよ」と。森やよいは、聞き分けよくうなずき、またぐんといい子になりました。森やよいは比較的おとなしく、担任の先生からは「少々引っ込み思案なところはあるが、心根は優しく、とても真面目で、成績も優秀です」という評価を与えられていました。けれど、森やよいは本当は引っ込み思案などではなく、比較的大人しくもなく、心根は優しくなく、とても真面目ではありませんでした。成績は優秀でした。なぜなら、森やよいは頭が良かったからです。多くの頭のよいひとがそうであるように、森やよいは残酷な一面を持っていました。森やよいは同級生との付き合いはくだらないものと断じ、特に面倒なかかわりは持ちたくなかったため、ひとりでお絵かきや読書に興じることが多々ありました。しかし、あまりお友達がいなくても大人からうるさくされることを森やよいはよく知っていたので、大人しく、引っ込み思案で、心根の優しく、真面目でまだましな知性を持った友人を三人ほど選定し、お友達になりました。知性を優先させた結果、大人しくなく優しくない友達もひとりできました。森やよいの人生において大きな役割を果たしたこのお友達の名まえは、岡崎満月といいました。へんな名まえでした。

森やよいは、町に繰り出しては人間観察をしました。お母さんには、「図書館で満月とお勉強をしてきます」と言っていました。たまに図書館も行きました。お母さんも、森やよいも満足していました。満月はよくゲームセンターに行きましたが、森やよいもしばしば同行しました。森やよいはあまりお金を持っていませんでした。しかし、満月はいつも三千円以上を財布にいれるようにしていました。満月がそのお金を手に入れる方法を、森やよいは十七通りほど思いついていましたが、それを真似る気も、満月に問う気もありませんでした。満月のお金で、たまに森やよいもゾンビを殺しまくったりしました。満月は森やよいのことをかわいがりたいと思っていたので、森やよいはそれに甘んじていました。森やよいは満月のことがけっこう好きです。満月はよく嘘をつき、弱いものをいじめ、大人を窮地に追いつめるのが大好きでした。そんな満月を見ているのは、愉快です。森やよいのことを好きな満月は、それに、かわいいものです。満月は賢く、暴力を振るう父親から逃げ出す術を心得ていました。母親をおいて家を出ればよかったのです。そして、困ったら児童相談所に行くか、満月をかわいがる叔父さんのもとへ走ればよかったのです。

森やよいと満月は、週に三日ほど一緒にあそびました。森やよいの家庭は円満でしたが、満月の家庭は円満ではなかったため、彼女は森やよいと遊べない日が週に三日ありました、そして日曜日があり、満月の一週間がすぎていました。森やよいがいいことを思いつくのは、だいたいが日曜日でした。お母さんと買い物をして、帰りにアイスクリームが食べたくなった旨を申告すると、お母さんは「あらあら、じゃあ、一緒に食べましょうね」と森やよいをすてきなカッフェーに連れていってくれました。森やよいはすでにアイスクリームを食べたくなくなっていたので、ストロベリーパッフェと紅茶を注文し、お母さんは紅茶だけを注文しました。森やよいは、アールグレイのかおりだけが好きでした。しかし、味は嫌いだったので、どんなにアールグレイのかおりをかぎたくなっても、お店ではダージリンを注文するようにしていました。そんなときは、さりげなくお母さんをアールグレイに誘導することを忘れませんでした。こうすれば、森やよいはアールグレイのかおりだけを楽しむことができます。お母さんがお手洗いに立つと、森やよいはひとりテーブルに取り残されました。お母さんはお化粧を直すのかもしれません。森やよいの家庭は裕福だったので、お母さんはいつもそれらしい服装をしていました。つまり、階級に相応しい服装です。森やよいもそれに倣っていました。

森やよいが手持ちぶさたにしていると、上品そうなおばあさんと目が合いました。おばあさんはちょうど森やよいとお母さんの座っていたテーブルの向かいの列のテーブルに座っていました。森やよいが目をそらさないでいると、おばあさんはなぜだか席を立ち、森やよいのテーブルへとやってくるなり、こう言いました。「お名前は?」「森やよいです」「あら、いい名前ね。何年生?」「小学四年生です」「お母さんはどうしたの?」「お手洗いに」「そう。何かもう、注文はしたのかしら」「わたしはストロベリーパッフェと、ダージリンティーを注文しましたわ」「あら、けっこうね。やよいさんは、お母さんのことは好き?」「ええ」「そう。ひどいお母さんねえ」「どうしてですの?」「だって、子どもさんに好きと言わせるお母さんなんてひどいわ。子どもさんは、お母さんのことなんて嫌いなものよ。そうでしょう」「ええ」「でしょう。だから、やよいさんのお母さんはひどいわねえ」。森やよいはとても賢かったので、質問ではない感想や、このおばあさんの主観的な発言には明瞭な回答をしないように心がけました。おばあさんはなぜだかそのまま居座って、やがてウェイトレスの運んできたアールグレイに手をつけました。森やよいはにこにこしていましたが、このおばあさんの高級そうに見えてそうでなく、上品そうに見えてそうでない服装や、年老いたにおいのもたらす絶望的な吐き気と独善的な主義と、闘っていました。森やよいは育ちがいいので、そういったすべての不快感を、愛くるしくおっとりとした笑みの下にすこぶる自然に潜めていました。おばあさんはそれに気がついた風もありません。

そうこうするうちに、またおばあさんは話し出します。

「わたくしはね。恵まれない子どもさんたちに手をさしのべるボランティアをしているのよ。ちゃんと区役所にも登録しているんですの。こんな年でしょ、ですからね、わたくしも社会に参画しているという気持ちをもっていないとと思ったんですのよ。ほら、いまは、アルツハイマーだとかなんとかと、老人は肩身が狭いでしょう? でもね、ああいうのはね、その本人にも問題があるのよ。社会に参画していればね、わたくしみたいにね、ちっともぼけやしないで、元気でいられるのよ。こうしてやよいさんみたいな若いかたともおしゃべりできるしね、ほら、わたくし、何歳に見えるかしら」

森やよいは少し首を傾げたあと、ストロベリーパッフェにスプーンをさして、生クリームを掬いました。このカッフェーのパッフェはたいへん美味で、森やよいの気に入るところでした。おばあさんは、孫を見るような目で森やよいを見ています。森やよいの実のおばあさんは、非常に気性が荒く、痴呆が進んでいますが、森やよいの家庭は裕福なため、実のおばあさんは有料の介護施設で万全な環境の中、非常に有意義な生活を送っているそうです。たまに実のおばあさんから手紙が届くと、一人暮らしをしていたころよりも頭が冴え、痴呆が退いた風さえあり、彼女はいまなんと、小説執筆をしています。自費出版で自伝を出したいからと、実のおばあさんは息子であるところの森やよいのお父さんに相談していました。森やよいは、いいことだと思いました。しかし、と目の前のおばあさんを改めて見ます。彼女は、ぱっと見でも八十七歳くらいのようです。森やよいはいま九歳で、再来月十歳になります。十歳の誕生日には、お母さんとお父さんからシャム猫を贈ってもらう予定です。森やよいはお誕生日が今からわりあい楽しみでした。なぜなら、森やよいは大の猫好きだからです。

「ん~百歳くらい!」

森やよいはにこにこしました。森やよいは九歳でしたし、お母さんがお手洗いから戻ってくるのが見えました。彼女は自分が座っていた席に見知らぬおばあさんが座っているのを見て取っても、おっとりと微笑んで、ゆったりとした足取りでした。おばあさんは、森やよいに言われたことが信じられないとでもいうように、あるいは持病の発作のように、全身をぶるぶるとふるわせました。森やよいはにこにこしました。すこぶる楽しかったからです。お母さんがいよいよ席にくると、おばあさんは急に癇癪を起こしました。「警察を呼んで! 警察を呼んで! この子は虐待を受けていますよ! 誰か! なんてひどい母親でしょうね! どなたかはやく!」と喚きたてます。お母さんは、穏やかな声で「おどきになってくださいまし」と言いました。森やよいは、泣き出すふりをしました。「お母さあん、このおばあさん、こわいよう」と言いました。お店のなかはしっちゃかめっちゃかでしたが、森やよいはすでにストロベリーパッフェを食べ終えていたので特に問題はありませんでした。店長らしき人物がとんできて、おばあさんに二、三のことを質問していました。おばあさんは自分の座っていた席にあった鞄から、名刺入れを取り出し、差し出していました。お母さんはそのうちに席について、森やよいは自分のぶんのダージリンティーをお母さんのほうへと押し出しました。お母さんは優雅に紅茶をひとくち飲むと、「いやねえ」と言ったので、森やよいは小さく肩をすくめました。「あのおばあさん、きっと孤独なのね」。

落山羊

ひとりサークル【ヲンブルペコネ】。

blog:ヲンブルペコネ

twitterアカウント:@You_Ochiyama

マスコットキャラ:跳世ひつじ

とこしなえにゆるいや

よんth

Pさん

港の方へ。匂いのする港の方へ。砕け散る暁光の、総菜を買わないと。

足は既に総菜チェーン「オリジン弁当」へ、はやくも赴いていた。電信柱の奥にある、その店。

側溝には、かるく苔が生えていた。「アクアリウム」の対義語である、「テラリウム」を趣味としている女性はこう述懐する。

「みなさん、本当によくやっていると思います。

一番定番の材料は、ミズゴケと赤色の土です。

素敵。

卑しい家庭に生まれた私にも、ようやく、持つことが出来たのでした。

どうして。ようやく役所に辿り着いたみなさん。希望を持って。やけくそ」

雨が降ることもあるが、テラリウムにおいては、雨を再現するために、霧吹きを使用することもある。

ガラスと金属を組み合わせて作られた霧吹き。

どうしても嫌だというのなら、自然に任せるというのも、よい選択だろう。

激しく叩きつけられた土くれと変形したアクリルケースが、茶色いマンションの迷惑な方のベランダに転がっている。

自転車置き場には灰色の溝の掘られている屋根が被さっていた。

直方体の地球が激しく揺さぶられるときもあれば、揺さぶられないときもある。セラピー犬が横を通る。セラピー犬は全くオシッコをしない、どんな人間に撫でられても平然と別のことを考えてやり過ごし、別のことというのは、純粋持続が本当にあり得るのか?

人が言葉を使ってすべてを分割しようとする前の、根源的状態。

あるいワン。ひなもるねワン。ジャクリーヌ・イェルドワン。セラピー犬の意識は激しく混濁してきた。

芝生の上で悪ガキに耳をモミクチャにされながら昼寝をはじめた。

順々に、徐々に加速しながらズームアウトしていく。ひどく原始的な、一つだけしかカメラを使わない方法で撮影していた為に、カットのはじめの方はめっちゃブルブルぶれてる。悪ガキをスターバックスのコーヒー飲ませたまま放っておく未亡人。白くて丸い公園の屋根。背後には波打つ松林。こうして、イメージの貧困があらゆる人間に囂しいくらい叫ばれるのである。

三メートルほどの巨人が映り込んでいたため、後日、話題になった。