崩れる通信

「崩れる本棚」創作コンテンツ用のブログです。

崩れる通信 No.-1

そろそろ板についてきた「崩れる通信」、今回は-1号、創刊前号ということで、ごっつぁり書き手を集めています。

一作目、前回文フリにて頒布された『需要と供給の二十三時十四分』で提示した、集合的無意識を前提とした多世界解釈の基礎理論を応用的に活用したねこ小説、『ねころん』高橋己詩氏。目玉フィクションです。

次に、文具通である秋月千津子女史による連載エッセイ『文具語り』。えっ、あのメジャー文具にそんな過去が!?

三つ目は、わが崩れる本棚の頭領による『ウサギノヴィッチのか「長ゼリ」』。(傍白)えーっと、「長ゼリ」って、何のことだっけ?

最後には、無くもがなのエッセイ、『Pさんぽ』。やっと家から百メートルほど歩き出したところだ。何やってんの?

以上四作。夏の夜長、クーラーをガンガンに効かせつつ、読みねえ、読みねえ。

ねころん

高橋己詩

魚介系統のスープを好まないこの男でも、このラーメン店の定番メニューであるシャケラーメンは「あ、おいしいなあ」と感じることができた。中太麺、あっさり具合、もやしの量等、シャケラーメンの要素ひとつひとつが、男にとっては新鮮な出会いだった。

ところで、箱の中にラジウムガイガーカウンター、それとつながった青酸カリ入りの容器、そして一匹の猫を入れ、箱の蓋を閉める。容器には予め、アルファ粒子を感知すると蓋が開くように仕掛けを施しておくこととする。もしラジウムアルファ崩壊を起こせば、アルファ粒子が放出され、箱の中は青酸カリで充満し、猫は死ぬ。こうした環境を用意した上で箱を密閉状態にし、一時間。箱を空けたら猫は死んでいるだろうか、生きているだろうか。この時前提として、アルファ粒子が放出される確立は五十パーセントとし、猫の死因はこの青酸カリのみとする。

これは、量子力学へアイロニカルに異論を唱えるための実験であり、「シュレーディンガーの猫」という名称もつけられている。こうした仮定や前提で塗りたくられた量子力学の論理に対する反論だったはずが、驚くべきことに、ここから解釈は更に展開していく。その論理展開の一つに、箱の蓋を開けたときにようやく量子の状態が決まる、というものがある。人間が箱を開けた際に複数存在する状態が収束したり、蓋を開いたことによってデコヒーレンスによる影響が及んだり、蓋を開ける人間の意思が箱の内部へと伝わったり云々、つまりは、箱の中の猫が生きているか死んでいるかは、箱の蓋を開けたまさにその時に決まる、という考え方である。ここでまたアイロニカルな領域へ。この考え方は、人間を観測点として絞ってしまっている。箱を開ける人間によって猫の生死が決まるという考えに固執し、猫を観測点としようとしてはいない。むしろ、そのような考え方は無視、あるいは意識的に排除してしまっている。

シャケラーメンのスープを飲み干し、丼の底にあるロゴマークを眺め、席を立つ。客の背中と壁の間を、小さくすみませんすみませんしながら、横歩きで進んだ。

「あらざした!」

「ごっそうさました」

「またどぞぉ!」

出た。

適当な理由をつけて会社を休んでいる、水曜日の午後。自宅から徒歩十五分。特別さが無いようで、「あの書類どこ置きました?」程度の連絡が会社から入るのではないかという、不思議な緊張感の伴う、そんな休日だ。

駅ビル前という場所のせいか、人通りは多い。それでも十四時すこし過ぎという時間帯のせいか、あたりの飲食店が混み合っている様子はない。ここらでコーヒーでも飲もう、と男は、すぐに入れそうな coffee shop を探し始めた。

バスロータリーから離れ、パン店を通り過ぎ、四車線の通りに差し掛かる一本手前の路地に、男は入った。

そこで立ち止まった。前方に、黒い塊を見たからだ。それはボールペンや鉛筆で黒く塗りつぶしたような、そういう黒ではなく、黒色をそこに置いたような、そういう黒の塊だった。

黒に目を凝らすと、それが黒猫であることが分かった。

不吉。こわい。男はそう思った。

黒猫が前を横切ると、不幸に見舞われる。男は多くの人間と同様に、そう信じていた。モンスーンの到来、ペンケースの破損、ポンツーンの漂流。あらゆる最悪の事態を、男は想定した。

しかし、ふと冷静になる。黒猫は幸福の象徴であると、前のめりに信じ込んでいる地域もある。黒猫に横切られるということは幸福が遮断されるということ、という解釈は、その地域に住む人間の一部、ネガティブな思想を持つ方々によって生み出された迷信なのかもしれない。そう考えたのだ。

男は目の前の黒猫を見つめる。黒猫も男を見つめた。黒猫が男の前を横切る様子はない。横切る確立は五十パーセントである、という前提を置くべきか。

ここで男は、量子力学の向こう側へと到達する。黒猫を観測点として、思考を巡らせたのだ。

重要なのは、黒猫に横切られた人間が不幸になるかどうかではない。目の前の人間を不幸にするか、不幸にさせないか。黒猫がそれを決めようとしている、ということだ。目の前の人間を不幸にさせたければ、黒猫はその人間の前を横切る。不幸にさせたくなければ横切らない。黒猫を中心とし、黒猫を観測点とすれば、の場合である。

黒猫に自分の幸不幸を決められてたまるか、と男は一人で憤慨する。憤怒に近いものがあった。黒猫に横切られないため、さっと向き直り、路地を出た。これが彼のできる、不幸の可能性を回避する手段だった。

男はパン店を再度通過し、別の経路で coffee shop へ行くことにした。

実際のところ、シャケラーメンを食べたことによって付着した匂いに黒猫が反応し、目の前に現れたのではないのだろうか。迷信だとか、観測点だとか、量子の状態だとか、そんなものは一切関係なかったのかもしれない。

男はそんな考え方に、ふとしたきっかけで到達する。

しかしそれは七、八年ほど後のことである。

高橋己詩

講談社 birth で生まれた小説家。現在は無料頒布の猛獣。

文具語り

第1回

秋月千津子

「好きなものについて何か書いて下さい」と言われて、「それならば文具について話したい」と即答した。

文具好きを自称する人は大概、万年筆について語るのが好きだ。素材だとか、メーカーごとの特徴だとか、インクの色だとか、語れることがたくさんあるからだろう。でも私は、あれはお洒落なよそ行きのドレスだ、と思っている。厳選して手元に置くものであって、愛着もわくだろうし気分を上げてくれるけれど、毎日着て歩くものではない。

私が愛するのはそういう文具ではない。ボロボロになるまで着倒せる、使い勝手の良い普段着のような文房具たちだ。町の文具屋さんに行けば必ず売っていて、誰でも一度は見たことがある、数百円で手に入る身近な文具たち。私が語りたいのは、そういう文房具についてである。

身近な文具のルーツについて、そしてせっかく「崩れる本棚」さんの web 版で書くからには創作にも役立つような便利な使い方について、語っていきたいと思う。

そんなわけで第 1 回は「ポスト・イット」について書いていこうと思う。

いわゆる「ふせん」だ。貼ってはがせる、あれである。ちなみに、ふせんとポスト・イットは何が違うのか、という疑問をよく聞くが、「ポスト・イット」は登録商標であり、名乗れるのは3M社が出しているふせんだけだ。

ポスト・イットは米国の「Minnesota Mining & Manufacturing Co.(ミネソタ・マイニング・アンド・マニュファクチュアリング社)」という会社が開発した。この 3 つの M を取ってスリーエムなのである。本当は強力な接着剤を作ろうと思ったところ、とても弱い接着剤ができてしまい、それを応用して生まれたのがポスト・イットだ。世界的な大ヒット商品は、実は失敗作から生まれたのである。

創作をする人には、ポスト・イットを愛用している人が多いかもしれない。例えば、時系列ごとにストーリーを整理しようとした時などに、ポスト・イットにメモを書いて並べてみたり。何度でも貼ってはがせるポスト・イットは、入れ替えをして何かを考える時に非常に便利なツールである。何度も入れ替えていると粘着力が弱まってしまう、という人には「強粘着シリーズ」という粘着力が強いタイプがあるので使ってみてほしい。

元々が「本の栞にできないか?」という発想から生まれた商品でもあるので、読書の際にこれを使うのも良いだろう。私は本を買わずに図書館で借りることが多いので、これでメモを取りながら読むことがある。借りた本には線を引いたり書き込んだりできないので、ポスト・イットにメモをして貼っておき、後で整理するのだ。取材として資料にあたる際にも便利だろう。

面白い商品としては、「ふせん付きペン」というものがある。黒色ボールペンと蛍光マーカー、そして小さなふせんが一本のペンになっているのである。勉強のために本を読む時などに、これ一本あれば事足りるのだ。ペンケースに入れて持ち歩けるという点で、携帯するには少々不便というふせんの弱点を補った商品でもある。

それでもやっぱり「アナログは不便」「デジタルで管理したい」という人もいるだろう。そんな人におすすめなのが、Evernote と連動させる使い方だ。手書きポスト・イットに書いたメモを Evernote カメラで撮影して取り込むのだ。目的別にタグを付けたりと検索性が高まるし、出先でも簡単に確認することができる。

なんだか 3M 社の回し者のようになってしまった。

文房具に興味のなかった人も、少しは使ってみようかと思ってもらえたなら嬉しい限りだ。

秋月千津子

個人サークル「深海の記憶」で活動中のインディーズ小説家。

Twitter:@akizuki_chizuko

【イベント参加予定】

10/10 第2回テキストレボリューションズ

11/23 文学フリマ東京

ウサギノヴィッチの「長ゼリ」

第2回

ウサギノヴィッチ

前回はどこまで語ったか。それを見返せばいいことなのだが、あえてそれはしない。おぼろげな記憶で書いていこうと思う。今回までのエッセイは僕にとっての演劇とのカウンセリングについてだ。

演劇というのは、個人が稽古によって精神的に裸にして、すべてをさらけ出していく。そして、公演ごとに座組を作り、稽古が終わったら食事に行ったり、飲みに行ったりして仲を深めていく。そこでなにを勘違いして、恋愛関係や男女の関係になってしまう。

そこで悟ったこと、この世界は狭い中で男と女が回っているんだと。しかも、それはちょっとしたゴシップみたいな感じで、人の噂が回ってくる。なんて世の中なんだと思って、ちっちゃな芸能界みたいだと演劇をやっているときに僕はそう体感した。

そして、それは演劇だけではなかった、音楽も小説もそうだというのがあとあとになってわかってきた。

ちょっと話がズレたので、演劇に話を戻すと崩れる本棚 No.2 で書いた『ワンチャン』みたいなことがあるのかどうかと言われれば、人間関係はきっとあると思う。実体験としてはない。ちょっとしたシュミレーションがあの作品にはあるし、小説なりのデフォルメがされている。この作品のモデルもいなくはない。

作者が自作の解説をするなんて恥ずかしいことかもしれないが、せっかくの機会だからやってみた。たぶん、これからはすることはないだろうと思う。

クリエイティブなことをやっている人はやっぱり、同じようなことをやっている人に魅力を感じるのかもしれない。それは過去の自分もそうだったかもしれない。当時付き合ってた彼女となにがきっかけで付き合ったかは覚えていない。これは本当の話で、いつのタイミングで付き合い始めたのかははっきりしたものはなかったと思う。思い出せないということはそういうことなのだろう。自分はどこか違うと思いながら、その時付き合っていた。それが五年くらいだれにも話さなかったことだった。同族蔑視的なところがあったのかもしれない。

いつの間にか彼女とは別れてしまってから、元の劇団が復活公演するとか数回ほど演劇に携わった。彼女のいない演劇はどこかなにかがぽっかり穴が空いてしまったかのようだった。でも、そのときに完全にスタッフに徹して、しかも、ギャラをもらって仕事をするなんてことはそれだけだった。そのお金は当時流行ってたヘッドフォンに使った。

演劇にはいい思い出も悪い思い出もたくさんある。これから、批評しようと思っている自分の家にある演劇の DVD は彼女と付き合ってた時に見に行った公演もたくさんある。それを見ることは若干自分の心の傷に塩を塗る行為かもしれないが、それを乗り越えていきたいと思う。

しばらく時間は空くが、自分のエッセイの番が回ってきたときには一つの作品を批評と言う言葉は固いので、感想を書いていこうと思います。

Pさんぽ

第2回

Pさん

それからもう少し歩く。片側一車線のそこそこ車の通る道をまたいだところに、ここ数ヶ月で何軒も建てられた分譲住宅があり、のこりひと分譲を建てるのみとなった、その空き地にはまだ雑草がまばらに生えている。こういった光景はありふれている。郊外の、まだ開発されきっていないこのような土地では。ここを通る度に、家が完成し、そこにローンを払える家族が住み着くまでを観察していた。そこにはもう親子の対の自転車まで停められている。時間は早い。頭の中で早回しで再生すると早い。巻き戻すと再び全部が空き地に戻る。雑草がまばらに生えている、家何軒分もの、もったいない土地が広がっている。再び現在に戻る。白を基調とした清潔感あふれる外観、テラスっぽいものが白い木材でまばらな床面を構成して、張り出している。子供用の自転車が、雑に停めたのか、転がっている。台風は確かにあったけれども、台風のせいで転がっているのでもないだろう、そんな風に思える、いや、台風によって転がっていたのかも知れない。ここにははじめに大工が住み着いていた。いや、住み着くというほど泊まり込んでいたわけでもないが、家の外観をしているだけの、内側は支柱むき出しの空間を存分に使って、休憩時間をのびやかに過ごしていたのは確かだ。なぜか、イメージの中で、やかんが窓枠のヘリに置いてあって、やかんの中には、でかい氷がバンバン放り込まれた麦茶が入っている。

実はこれはフィクションの場面だ。「サザエサン」のまだ絵がヤバくない初期のひとつの回で、大工がそんなふうに建てている途中の家の木材の上にハベっていて、やかんでお茶を飲み交わしていたのだ。そこにサザエさんが通りかかってそのお茶をくれたものと勘違いして飲むのだったかどうか、話の運びは忘れたけれども、そんな風に大工が建てている途中の家の中で休憩時間を過ごしているという映像が妙に印象に残って、というかひとつの「大工」という原型的イメージになっていて、今となってはその新築の分譲住宅の建築中の家の中で、たしか裸電球は確実にぶら下がっていたのは覚えているが、そこにやかんが置いてあったのが合成された記憶だとは思えないくらい自然に記憶の中に置かれているのを発見する。いや、裸電球すら、ぶら下がっていたのかどうか定かではない。(続く)