読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

崩れる通信

「崩れる本棚」創作コンテンツ用のブログです。

崩れる通信 No.18

いつも心に赤信号。崩れる通信です。

今日はわかりやすく、三語でそれぞれの連載作品を紹介します。

一作目。階段、坂道、トマソンだ! クロフネⅢ世さんの「路上観察のすすめ」第4回。

二作目。哲学、文学、悪ふざけ! 小五郎さんの「白い教室 ~落第生のはらわた~」第4回。(という割にシリアスな話です)

最後に、金八、ロシア語、散歩しない! Pさんの「Pさんぽ」。

以上。お楽しみあれ!

……………………

水面下で、新たな企画を起動中です……。

路上観察のすすめ

第4回 街が持つ既存イメージからの脱却と再構築を目指す

クロフネⅢ世

前回の記事では、都心部では新宿区や港区などの区単位どころか、○○駅周辺などのもっと小さい単位で街のイメージをはっきりと語ることができるけれども、地方に移るとへたをすれば県単位レベルに広げなければ街のイメージは語れない。けれども、街に対する見方を再定義すれば地方でももう少し小さい単位で街の特性を語ることができるようになるのではないか? と問い、筆者が住む横須賀を例題にして街歩きをしながら横須賀という街の既存イメージ脱却と街が持っている隠れた魅力の再定義を図ろうと試みたところだった。何気なく日常に潜む風景にこそ、その街が持つ魅力が隠れているのではないのだろうか。そこを指摘していくことにより、新しい街の価値観が生まれてくるのではないだろうか、ということである。そこで生まれた価値観をもっとクローズアップすることにより、地方都市でも小さな単位で街の魅力を語れるはずである。

そこで、汐入駅を降り、高台の上にある上町という場所へ向けて歩きだし、そこで見つけた路上風景から横須賀の魅力を改めて確認しようとしていたのである。横須賀という単位ではなく、汐入と上町、更にはそこから平坂を下り若松町へと降りていくコースである。地元を知らない人はグーグルマップで確認してほしい。かなり限定された土地であることが分かる。

そこでは、横須賀の特徴的な隆起の激しい地形の影響であらゆるところに階段や坂を見出すことができていた。

そして、筆者は道中で ある風景 を見つけることに成功した。

それが、前回最後に提示した写真である。

その写真から何が見出されるだろうか。問いかけて終わったのだが、読者諸君は一か月経ちその写真の意味が想像できただろうか。それこそ、既存概念の破壊と再構築である。

では、改めてその写真に写っているある物体を別角度で見てみよう。

f:id:kuzu-tsuu:20151212223355j:plain

分かっていただけただろうか。そう、崖の下に写真のそれがあるのである。まるで、壁に埋め込まれたような『階段』が。

いや、もはやこれを階段と呼ぶべきなのだろうか。階段の残滓とかいうちゃちな表現でも収まりがつかない。もちろん、これこそトマソンだという指摘は成り立つだろう。これは、まさしくトマソン物件である。階段という役割・必要性はもはやそこに存在しなく、登る・降りるという行為自体に必要性が消失している。となると、これは立派なトマソンだ。トマソンが潜む風景だ。

しかし、それで終わらすのもすっきりとしない。

f:id:kuzu-tsuu:20151212223446j:plain

とりあえず、登ってみた。上からはこんな風景が見える。

おそらくは、この駐車場ができる前にこの場所に何かしらの建造物があり、そこへ達する道のりの一部として階段があったものと想像できる。しかし、もはやその建造物はこの世に存在しなくなり、階段は駐車場の片隅に役割を終えたかのようにひっそりと残っている。

もしくは、この崖を登るのは、当初駐車場奥にある坂ではなくてこの階段だったのかもしれない。それが、いつの間にか階段が切り取られ駐車場と化し、坂ができてその役割を終えたのかもしれない。その証拠に、階段はやけに狭く登るのにはあまりに中途半端な幅しかない。

階段という定義を用いるなら、目的への場所とその手前である程度の高低差が生じ、その差を乗り越えるために人為的により一定間隔の小さく細かい段差をつけることによりその高低差を乗り越えようとするための構造物だ。それ以外の目的や意味合いはなかなか生じない。

その階段の先に何もないのだから、トマソンとしか言いようがないだろう? と指摘されればその通りとうなずくしかない……と、そこでうなずいてはダメだ。そこで、既存価値観の破壊と再定義である。

筆者は、更に洞察を続けてみた。

f:id:kuzu-tsuu:20151212223525j:plain

すると、どうであろうか、崖の下、階段の右手には上記写真のような穴倉が見つかった。まるで、何かを吸い込もうと待ち構えているかのような穴だ。

とはいえ、覗き込んでみたものの特筆するような何かは見つからなかったのだが。ここで穴の定義を試みたいところだが、それも難しい。何かしら人工的に掘られたようにも感じられるが、そこにどのような用途があったのかは推測しにくい。倉庫に使っていたのだろうか? もしかしたら、防空壕? どれにしても、現状では何かしらの役割をもってそこにあるわけでなさそうだ。

しかし、問題は風景の一部分を切り刻み観察していては解明できないだろう。そう、もっと引いて、もっと広い視点で。そこにある既存の意味を捨てて。

これこそが創作世界へと誘う光景ではないか。

崖と、どこへも誘うことがない階段と、穴。この光景こそ、創作する者の頭を激しく刺激する貴重な光景ではないか。いわば、『創作者専用風景』である。

このシーンを撮って、読者諸君は是非とも何かしらの物語を創造していただきたい。

階段が持つ意味合いを別の意味にすり替え、更には穴という空間にも意味を放り投げ、崖そのものがどのような物語を展開しているのだろうか、想像するのだ。そして、崖の上の住人の話を創作するのである。

もしできた人がいるならば、是非筆者へ教えてほしい。このブログで紹介したい。

話が大幅にずれてしまった。ここらで再び街歩きに戻って横須賀の風景を確認してみよう。

横須賀と言えば、隆起が激しい土地。だからこその光景を一気に見ていこう。

f:id:kuzu-tsuu:20151212224033j:plain

f:id:kuzu-tsuu:20151212223618j:plain

f:id:kuzu-tsuu:20151212223628j:plain

f:id:kuzu-tsuu:20151212223646j:plain

すてきな階段写真を連続で見てもらった。

いかがであろうか。もう、堪らなくなって横須賀に移住したくなった人も現れたのではないだろうか。この『段差』こそが、横須賀の最大の魅力ではないのだろうか。

常に付きまとう上下の移動がつらい?

足腰に堪える?

その視点、価値観を捨てるところから横須賀への移住は始まるのだ。このアップダウンの激しさこそが横須賀の魅力あふれる景観を作りだし、そして、この絶妙な階段を形成するのだ。

これほど、魅力的な階段光景が押し寄せてくる土地もなかなかないのではないだろうか。

更に、こんな風景にもお目にかかれる。

f:id:kuzu-tsuu:20151212223731j:plain

何気ない坂道の途中で見られた光景だ。

ほら、グッとくるだろ?

何がだって??

まだまだ既存の価値観と視点で見ているようだな。

読者諸君、この斜面との戦いの様が分からないというのかい? 斜めになった地形に無理やり水平を保とうとした結果の光景じゃないか。これにグッと来ないようでは、まだまだ横須賀に住む資格はない。

他にも

f:id:kuzu-tsuu:20151212224328j:plain

ちょっとわかりにくいが、これも傾斜した地形の途中にあった自販機の様子だ。

斜めになった土地に水平を保とうと置かれた結果生じた段差。それを補うための、自販機前に置かれた踏み台なのだ。ほら、グッとくるだろ? わかってきただろ?

f:id:kuzu-tsuu:20151212224410j:plain

そして、これが平坂の途中で見かける商店街の様子。

階段、坂、傾斜に抗う建造物。これらが織りなす光景こそが、横須賀の隠された魅力である。

普段、何げない光景なだけに見過ごしがちではあるが、既存の価値観・視点を捨て去りクローズアップしてみてみると、とたんに何気ない風景が魅力を醸し出すのである。それこそが、街が持つイメージの再構築なのである。読者諸君も、自身の住む町をもう一度見つめなおし、違う視点で改めて眺めてほしい。全く違う景観がそこに現れることだろう。そうなれば、東京と同じく、街単位で土地の魅力を語れるようになるかもしれない。

さあ、明日から実践して街歩きしてみよう!

クロフネⅢ世

企画型サークル『男一匹元気が出るディスコ』。

無茶振りありきの創作。普通じゃない作品を求めるならOGDヘ。

webサイト:K.K.Theater

白い教室 ~落第生のはらわた~

第4回

小五郎

2015年11月13日の金曜日、パリ同時多発テロ事件が起きた。

その日、最大の犠牲者を出したのは、午後9時過ぎ、イーグルス・オブ・デス・メタルのルバタクラン劇場でのライブ中だった。

約90人の観客やスタッフを、テロリストがカラシニコフなどで射殺したのだ。

このニュースを聞いて、わたくしは『イングロリアス・バスターズ』(2010・米)を連想した。

わたくしは、その時間、寝ていた。

パリと日本は8時間の時差がある。

寝る前に、わたくしは、ギザ10を8枚所有しているという、どうでもいい秘密の開陳をするおバカツイートをしていた。

13日の昼には、ブルーライトPCレンズをジンズで呑気に購入し、夜には、このジンに当エッセイの原稿を編集長に送信していた。

送った原稿はフランスのことで埋め尽くされている。

わたくしは、フランス本土に、一度も行ったことがない。

しかし次に海外旅行をするのなら、是非フランスに行きたいと夢想していたこともあった。

いま、正直に言えば、2001年のアメリカ同時多発テロのときに、最先端というアメリカへのイメージが悪化したように、自由・博愛・平等が汚されたパリには、もう行きたいとは残念ながら思えない。

哀しいことだ。

これで、アメリカはダメで、ヨーロッパはヨイという構図さえ崩壊した。

さて、前置きが長くなったが、今回もこれまでを踏襲して、フランスの珠玉の言葉から、なにかしらの思考を展開したい。

またいつも通り、支離滅裂な論述になるだろうが、そこは賢明な読者諸君に、行間を埋め合わせてもらうことにして、ご容赦願いたい。

さあ、今回のありがたい御託宣は、アルチュール・ランボー(1854―1891)の

「私」は一個の他者です

(『ランボー全詩集』鈴木創士訳・河出文庫P470)

だ。

これは、17才のランボーが、ジョルジュ・イザンバール先生に宛てた手紙の一文である。

わたくしは、この言葉に対し、柄谷行人のなにかの著作の「私は他者である」といった文章や、卒業論文で取り上げようとした、マルティン・ブーバーの『我と汝・対話』(植田重郎訳・岩波文庫)での、ランボーとは逆だけど、汝を我の如く愛せよ、といった考えなどを思い浮かべる。

そうそう、前田敦子のソロ曲『君は僕だ』とか、その元ネタの洋楽とかもね。

つまりは、『おれがあいつであいつがおれで』状態へと認識はずれ、「おまえのものはおれのもの」(剛田武)とは真逆の、「実存主義ヒューマニズムである」(J・P・サルトル)といった、「おれのものはおまえのもの」的認識の逆転が起きるのだ。

これは、ダンテ『神曲』の「地獄篇第十三曲」での自殺者の定義《自己に暴力をふるった者》を引いて、

《私は他人にも自分にも暴力をふるいたくありません》

(『大江健三郎 作家自身を語る』新潮文庫P392)

や、

《正しいことも悪いことも含めて、全部自分の一部であるって認識させることですね。‘68年頃にそういう問題とぶち当たったんじゃないですか。客観なんて、つくりごとでしかない。曖昧さのなかで生きることにしか本当のことはないんだって》

(「ぼくの採点症」第16回 中原昌也 『芸術新潮』2012・4 P11)

などを想起させもする。

最後に、もう一度、冒頭に戻って考えてみよう。

シリアのISが、空爆の反撃として、パリで同時多発テロ事件を起こした。

これに対し、連合国は、IS掃討のため、シリアにより激しい空爆を始めている。

大江さんの言葉なぞ、どこ吹く風の暴力の連鎖。

今回の箴言の自己と他者を等しい価値にするということ、つまりドゥルーズに言わせれば、「器官なき身体」なる脳も臓器も平等にする思想で考えれば、フランスもシリアも等価であり、殺し殺される関係としての負の等価は決して受容されるものではないはずだ。

(了)

小五郎

今年で12年目のメルキド出版のルナティックな弟のほう

twitter:@ngz55

blog:小五郎の日記

Pさんぽ

第20回

Pさん

「ρ(ロー)という字はァ~」片足が義足になった武田鉄矢が汚く崩れた「P」みたいな字を黒板に書きつけながらモンテスキューさながらの演説をブッていた。「ρ」という字はキリル文字の「Р(ロー)」と同じく「P」と似たような形をしていながら字の起源としては「R」の起源である。じゃあアルファベットの「P」という字の起源は? これもギリシャ文字キリル文字が同じ形で示している「π(パイ)」もしくは「п(ペー)」である。

キリル文字っていうのは、ロシア語を表記する文字のことである。ロシア文字、と言った方がわかりやすいがスラヴ系諸民族全般がお使いになるのであんましロシアロシアしい言い方をしない方がスラヴ系諸民族様もお喜びになることだろう。

このことからわかるように、ロシア語はわりかし英語とかフランス語とかよりもギリシャ語の直系に近いように思われる。その分文法は未分化なところが多く見られる。文法が未分化だという見方はヨーロッパ語圏の偏見っぽいところがある。大過去中過去小過去、近未来遠未来なん何なんとペカペカめくるように文法を複雑化させることとは別の豊かさというものがあるのかもしれない。

そんなことを教師のフリをした武田鉄矢に質問しようものなら今日日お目にかからない程武骨な、タダの棒みたいな義足で遠慮なしに蹴られる。タダの棒とは思えないくらい器用に生意気な生徒の身体の重心をうまく操作しながら紙切れみたいにグルグル回してから教卓の足元にクチャッとまとめる。

それから、合板を張っただけみたいな、液体のシミが暗い茶色になって所々広がっている床板を、その義足でドンドン叩いて生徒の注目を改めて引こうとする。

先程も叙述したように今日日なかなかお目にかけないくらい程武骨なその義足は、なんのクッションもなくその衝撃を大腿骨頸部に激しく伝えるのだが教師のフリをした武田鉄矢は意に介しない。意に介しないわけではなく、極端な行動を取ることによって人の気を引く類の、「足を失ったことに比べたら、これほどの痛みはなんということもない」ということを表現しようとする、これは自傷行為に近いものがある。(続く)