崩れる通信

「崩れる本棚」創作コンテンツ用のブログです。

崩れる通信 No.4

さあさ、読んでらっしゃい見てらっしゃい、毎度土曜にお騒がせしております、『崩れる通信』の放送開始だヨ。

乞願くは、何の興味もないヨみたいな顔してる御仁の眉間を、不穏な感じで揺るがしたまえ。

さて一作目。小説のバトンが、次々と書き手に回されて行く、『崩れるリレー小説(仮)』。今回の書きては、あの高橋己詩! 高橋己詩でェ、ございます。

これは、出だしは「6」の雰囲気、途中の会話は「ちいさなこと」的な静謐が……などと、彼のフヮンが申しておるそうです。面白いこと、請け合っているよ。

お次は、サークル【教授会】でおなじみ、紗那教授の、自動車のエッセイ(風小説? 小説風エッセイ?)、『莉子と亜紀の自動車いろは』。オープンカーで六甲山。サイコーですな……!

編集さんも、一回、六甲山に登って、山頂近くのレストランで、ビールを飲んで、かなりサイコーでした。

三作目、ネットプリントで一世を風靡している、サークル【ヲンブルペコネ】の主、落山羊さんが、少女小説への思いのタケを、これでもかとモニタに照射する『えいえんの少女と小説』。

編集さんは、条件反射のように「マリみてマリみて!」と叫ぶだけなのでした。それしか知らない……!

以上三作。え、何かついてますか?

それではみな様、お楽しめ!!

崩れるリレー小説(仮)

第3回

高橋己詩

コルコバード加寿子の就業場所は、首都圏のとある場所に建てられたテナントビルの一区画だ。主な業務としては共有スペースの清掃、集出荷時の対応、そしてシール剥がし。決して満足と言えるような賃金ではないようだけれども、就労によるストレスや疲労をほとんど感じることなく、毎日定時刻には退勤することができる。少なくともこれまではそう、らしい。

コルコバード加寿子の座右の銘は、「成せば成る、やればできる、なおかつ二階から目薬だし!!!!」という諺だそうだ。又聞きで、そういう情報を得た。初めてこの文章を目にする人には意味があんま良い感じにはわかんないと思う。受け手によって解釈は大幅に異なるから、一概に一つの主張として要約することは困難だし、やりたくない。それでも敢えて要約するとしたら、「やればできる」が適切なところだろうか。

僕が彼女と初めて顔を合わせたのは、週に数回実施されている『胡椒等の講座』でのことだ。彼女が講師で、僕はチケットもぎり担当者だった。チケットもぎり担当者は会場入口の内側に立たされる。そのため必然的に、胡椒について説くコルコバード加寿子の朗らかな声が耳に入るわけだ。長時間、何度も。僕が胡椒を多角的に語ることができるのは、そのせいである。

だいぶ、脱線した。僕が何を言いたかったのかというと、「やればできる」という言葉を好いている人は、この世に僕だけではない、ということだ。平成の切り裂きジャックの最初の被害者がコルコバード加寿子となったこと、彼女は目撃証言として「犯人はジョージ・チャキリスのお面をかぶっていた。しかも二階から目薬だし!!!!」と述べていることなど、そのあたりはどうでも良い。

とにかく僕は「やればできるよ」と、妹に返答した。もちろん、僕の頭の中で展開している場面においての妹に、である。

気付いたときには言い終えてしまっていた。そして気付くと、敦子は目を覚ましてしまっていた。平素の声量で発したのだから、起きてしまうのも当然のことであろう。尋ねられたら反射的に返答してしまう癖は、どうにかならないものだろうか。

「見た?」

ベッドの上で横になっている敦子が、こちらに目も向けずに尋ねてきた。僕は目を背け、「いいや」とだけ言った。敦子の姿は、しっかりと目に焼きついてしまっている。

「私は見たよ」

彼女との会話が成立していなかったことに、今気がついた。てっきり彼女の姿を見てしまったのかどうか、そこについて問われているのかと僕は考えていたのだ。どうやら、そういうことではないらしい。僕は素直に、「何を見たの」と尋ねた。

切り裂きジャック。平成の、ね」

「ほんとに?」

「うん」

「どんな顔だった?」

「わかんない」

「顔は見てないんだ」

「だってお面あったし」

「どんなお面?」

「ぐにゃぐにゃの、変なやつ」

そう聞いた僕の脳裏に、ウルトラマンのオープニングの映像が浮かんだ。そして、あの、あまりにも有名なテーマソング。ぱぱぱぱぁん、ぱぱぱぱぁん、ぱぱぱぱぁぁぁん、ぷうぇいん! でんでででででん、でんでででででん胸ぇに、つけぇてる、マーぁくは流星、じまぁんの愛車はシボレー・コルベットで、比較的新しくモデルチェンジされたタイプぅ、出力ばかりが重視だった従来のタイプとは異なりぃ、5世代目からはハンドリング性能も格段に向上されているのよぉ~ 嗚呼、海千山千小学校~

この通り、僕は『ウルトラマンの歌』を諳んじている。

ぐにゃぐにゃの変なやつのお面をしていた、ということだが、果たして具体的にどんな具合なのかはわからない。それを追求することは僕にはできない。ぐにゃぐにゃに対して突き詰めるのは、とても野暮ったいことだと考えているからだ。どうであれ、コルコバード加寿子の証言とは一致しない。

平成の切り裂きジャックは、多種多様なお面を所有しているのだろうか。複数人で犯行に及んでいるのだろうか。それ以前に、お面なんてしていないのでは。この状況が孕む可能性は、他にもある。ここには書ききれないほどに。

それはそうと、僕には他に知りたいことがあった。

「いつやられたの?」と僕。

「さっき」と彼女。

「ここで?」

「ここで」

「そうなんだ」

思いついた質問はとにかく言葉にすべきである、と僕は認識している。回答ならばいくらでも簡単に、反射的にできるのに、いざ自分が質問するとなると、それを選び出すための負荷を必要以上にかけてしまい、結果、実行するのが遅れる。それによって困ったことは、特段思い当たる節がない。が、このままで良いとも思えない。

一つ深呼吸、すーっ、はぁぁやぃ。

適した質問に、僕はたどりつく。そしてそれを、言葉にした。

(続く)

高橋己詩

講談社 birth で生まれた小説家。現在は無料頒布の猛獣。

莉子と亜紀の自動車いろは

第1回 ~オープンカー編(上)~

紗那教授

快晴の空の下で、涼しい風が吹き荒れる。

午前十一時。六甲山の山道で一台のオープンカーが、次々と直面するコーナーをしなやかに駆け抜けていく。コーナー進入直前でブレーキペダルを踏む度に、タイヤが鳴き、アスファルトに散らばっていた葉っぱたちが戦いて道を譲る。車の挙動は至って安定しているが、スピードは速い。マフラーから出るエキゾーストが昼の峠にこだまする。

漆黒に光るオープンカーは裏六甲ドライブウェイを登り切り、交差点を右折して、記念碑台で停車する。六甲山の観光ポイントの一つであり、自動販売機やトイレ、ベンチもある休憩地点でもある。

日曜日なので、既に停車している車の台数はそれなりに多い。ファミリーカー、SUV、スポーツカーなどボディタイプも様々だ。

そんな中、黒のオープンカーから颯爽と降りる二人の二十代の女性は一際目立っていた。スポーツカーやオープンカーに乗っているのは男性であることが多い。なので、それを駆っているのが女性で、しかも若くて美しいということであれば注目の的である。

「もう少しスピード落としてくれればいいのに」

助手席側に座っていた、亜紀が眼鏡を整えて不満を洩らす。顔は端正だが、ゆったりとしたトップスにジーンズというシンプルでカジュアルな服装。

「え? 今日は全然飛ばしてないけど?」

この車のオーナー、莉子が屋根である幌を閉めて、鍵をかける。上はキャミソール、下はホットパンツという、肌の露出の多い服装。茶色の短髪が陽光を浴びて眩しく光る。

二人は自動販売機でジュースを買うと、階段を昇った先にあるベンチに腰掛ける。莉子はタバコを一本取り出して火をつける。灰色の煙が穏やかに立ち昇っていく。

「そもそも、二人乗りのオープンカーって不便じゃない? 三人以上でドライブに行けない、荷物は乗らない、無駄に注目を集める。後、あたしみたいに髪が長いと、風で乱れる」

亜紀は自分の肩よりも長い黒髪を、手で整える。

「確かに。でも、あたしみたいにあんまり友達いなっかたり、物欲なかったりする人にとっては気にならないかなー」

「うっ……、なんかごめん」

憂いを見せた莉子から目を逸らし、亜紀はメロンソーダを口にする。

「彼氏もいないし、子どももそんなに欲しくないしなー」

「だから、ごめんって!」

莉子は笑って、冗談だよと言ってタバコを吹かす。

「でも、オープンカーの最大の魅力って何かわかる?」

「魅力? うーん、やっぱり開放感があること?」

「正解。ただ、もっと具体的に言うと、開放感だけじゃなくて解放感もあるっていうこと」

「ん? どういうこと?」

「吹く風や自然の香りをダイレクトに感じられることも魅力的なんだけどさ、要は退屈な日常生活から解き放たれることなんだよ。車の本来の役割って、やっぱり移動手段であることだと思うの。世の中、車という物に対してそう割り切っている人も多い。でも、その移動時間が自分にとってワクワクするような、プレミアムな時間だったら人生とても充実すると思わない?」

「うーん、なんか難しい話になってきたぞ」

「いいや、とてもシンプルだよ。ただ、ある程度車への興味とお金は要ると思うけどね」

「まあ、車って金銭的に結構かかるもんね」

「オープンカーは特に一般的なファミリーカーと比べると、価格は高い。四人乗り以上の車と比べると不便なのは明らかだし、メインで乗るには難しいかもしれない。実際、セカンドカーとして買う人もいるし。だから、誰にでもオススメできるものじゃない。でも、普段何気なく通っている道が、まるで違う景色に見えてくることは約束していいかな」

莉子は吸い終えたタバコを携帯灰皿にしまい、缶コーヒーを一口飲む。

幼馴染である亜紀は、そんな彼女の充実した横顔を見て、どこか安堵した気持ちになる。昔から莉子はあらゆることに興味を示さなかった。笑わない子ではなかったし、勉強もきっちりこなしていた。でも、毎日をどこか浮かばない表情で過ごしていた。

莉子の笑顔らしい笑顔を見たのは、彼女がこのオープンカーを購入してからかもしれない。亜紀は嬉しさを胸に、メロンソーダを飲み干す。

紗那教授

個人サークル「教授会」の代表。

コミティア文学フリマなどの創作イベントに出没中。

作品のテイストがそれぞれで異なることが特徴的。

稀に水彩画などのイラストも描く。

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えいえんの少女と小説

第1回

落山羊

『マゼンタ色の黄昏』は、そこらには落ちていない。絶版。入手困難。古本屋さん、最近は少女小説棚の撤去が多い。ネットで探す。それか地元の図書館だ。図書館にこの名作がはいってないなんておかしい。絶対へんだ。世の中は少女小説をなんだと思っているのだ。『彩雲国物語』や『マリア様が見てる』や『十二国記』だけが少女小説ではありませんよ。

『マゼンタ色の黄昏-マリア外伝』は榛名しおりによる、中世ドイツを舞台にとった少女小説です。講談社X文庫ホワイトハート(『十二国記』と同レーベル、現在は在りし日の面影は薄い)から2000年に刊行されました。今から15年ほど前の作品、あまり目にする機会も耳にする機会も、少女小説読み以外にはないだろうと思われます。タイトルの通り、榛名しおりのデビュー作『マリアーブランデンブルクの真珠』の親世代のロマンスなのですが、そちらを読まずとも特に問題はなく、孤立した作品として完成されています。

この『マゼンタ色の黄昏』はさまざまな少女小説を読んできた中で、わたしが間違いなくトップスリーに選ぶ作品のひとつです。このエッセイでは少女小説のニッチなところをツンツンしようと思っていたのですが、そうもいかなくなりました。この作品を読み返してしまったために……。

さて唐突にはじめてしまいましたが、少女小説と関わることのない諸兄からしてみれば、そもそも少女小説って何なの、というところからこの問題はあるのでしょう……。わたしは専門家ではないし、この場は学術的なものではないので、正確な答えなんて知らない、というのが正直なところです。というのはあまりにも身も蓋もないので、あくまでもわたしが考えた少女小説とは何か、というのを簡単に表明しておくと、「少女の理想の少女が登場する小説」となるでしょうか。それが主人公かどうかにかかわらず、です。

『マゼンタ色の黄昏』の主人公であるハプスブルク家の姫君・エルザは、その点、少女の理想も理想、おっそろしいほどの高潔な精神の持ち主なのです。美貌と頭脳を兼ね備えた、若干13歳の彼女は政略結婚でハルバーシュタット老公爵のもとへ嫁ぐのですが、もうこのあたりがひどいひどい。昨今の少女小説ではあまり見られない風潮「ヒロインいじめ」もここに極まれり、というか、榛名しおりは歴史ものを書く上で避けられない、ヒロインの性の問題をわりあい突っ込んで書くのが特徴でもあるのですが……。とにかくこの結婚相手の爺さんがひどい。もちろん、ロマンスの相手はこのひとではないけれど。まとめてしまえば、この爺さんに隠れて宰相家の青年フランツと逢瀬を重ね、迎える結末やいかに、という「悲恋もの」なのです。

どんな目にあったとしても、エルザは気高い。挿絵は凛々しく池上紗京さん、榛名さんとは名コンビです。エルザの精神をよく表した彼女のすがたはもう、こわいくらいに張り詰めています。表紙絵からしてただ事ではない。って感じの。

何がすごいって、エルザの薄幸の人生ですよ。第三者から見ると、エルザの人生いいとこなし!(いやあるけど、でも)50以上年上の爺さんに凌辱されて子どもも奪われ、愛する人とは結ばれることがない。しかもそのフランツは結婚してしまうし、その妻ともまた別の女の人との間に子供をもうけてしまうし。その上戦争であっけなく城は陥落、その中でようやっとフランツと逃げる決心をしたエルザは、ハプスブルクの名のもとに、その逃亡を許されない。フランツと結ばれる日はきませんでした、とうとう。

こういうの、あまり少女小説には存在しません。榛名しおりは意図して「悲恋もの」そして「悲劇」を書いていますが、これがなかなかやっぱり、少女小説というジャンルにおいては難しいのだろうと推測できます。だってあんまりウケないから。これはエンタメの宿命だと思いますが。

ほんと、さっきから身も蓋もない物言いばかりしてしまいますが、榛名しおりの筆力でこの「悲劇」をやられると、結構ハートにキます。このひとは重厚な語り口が持ち味なのですが、虐げられているエルザが夜ごとフランツの触れた薔薇をひそかに手折って枕に詰める、そんな美しい情景を描かせればもう、涙なくしてこれが読めるかっ。とわたしはなります。バッドエンドが苦手、というひとはやはりこの界隈にいると多く見受けられるので、名作名作と騒ぎつつも思ったよりすすめにくい作品ではあるのですが、悲恋ものの少女小説として類を見ない傑作です。

この『マゼンタ色の黄昏』に登場する「少女の理想の少女」はもちろんエルザ。才色兼備の13歳。物語中彼女も年を重ねますが、やはりラストにしても若い。美人薄命です。ハプスブルクの名のもとに、誇りに生きて誇りに死ぬ、鉄の自制心で恋心を徹底的に殺し、ほんとうの最期の最期になるまでその気持ちを言葉にすることはないのです。いやあ、なんというプラトニック、ストイック、驚くべき節制!

誇りに生きて誇りに死にたくないですか? 実際の話ではない。お話の中でなら。それも、美少女として。『マゼンタ色の黄昏』は、ものすごい気迫で、エルザの一生を駆け抜ける悲劇です。けれど、少女の夢見る「死」が、「恋愛」でも「結婚」でもなく「成功」でもない、ほかでもない「死」がそこには克明に、うつくしく描かれているのです。逃れられない運命の重なり合いによって織られたこの悲劇が、わたしには衝撃的でした。もうひとりのキーパーソン・ユリアもある種「少女の理想の少女」ですが、紙幅の関係上ここでは泣く泣く割愛。ぜひ、読んでご確認ください。

もとよりこの作品は講談社 Amie という、漫画雑誌の活字コーナーに掲載されたものだったようです。残念なことにわたしは当初のその版を読んだことはないのですが、「なかよし」を卒業した少女向け、というコンセプトだったそう。やはり、少し上の年代を意識したゆえに、この永遠の少女の「死」を描けたのではないかと思うのです。そして「死」であるまえに必然的に、「生」があります。物語のなかの、夢のような「幸せな人生」を送ることかなわずとも、エルザは「死」により彼女の生きてきた厳しい時間すべてから解放されます。逆に言えば「死」によってでしかエルザは幸せにはなれないのですが、そのシビアさが、ほかの少女小説にはない、あまりにも「現実的」であり「夢見がち」でもある「理想」を浮き彫りにしています。

いったんの休止期間を経て、榛名しおりは最近またホワイトハートで新刊も出しています。それがまた、この『マゼンタ色の黄昏』に通ずる初期の「悲劇」や「悲恋」、少女たちのひとくちに幸せといえない人生を全力で描いていて、ふたたび目が離せません。近著『女伯爵マティルダ カノッサの愛しい人』にもぜひ注目を。カノッサの屈辱に舞台をとった作品、これまた壮絶です。

凛として生きる少女を描き「きる」ことでは、榛名しおりは圧倒的な力を持っています。彼女の年齢がそうさせるのか、円熟味のあるその作品は、けれど「少女」のための物語で在りつづけ、理想の何か、甘くはないひとつの答がそこにはあります。

さて、少女小説への興味は湧きましたでしょうか。こうして、少女小説の中から「少女の理想の少女」を探してゆきます。わたしはこのエッセイで、女性はもちろん、男性にぜひ少女小説を読んでほしいと思っています。少女のための少女を描いた少女小説に登場する少女たちの密度というものを感じてほしい。その小さなきっかけになれれば幸いですね。

ではまた次回、今度は少年を主人公に据えた少女小説にしようか、はたまた少女小説スペースオペラにしようか、ミステリにしようか……、選ぶのに困ってしまいますね。

――ハプスブルク家の名前を辱めようとするものは、この短剣が許さない――。

逃げようと思えば、十分逃げおおせたはずだった。

だが、エルザはその場から、一歩も動くことができなくなった。

榛名しおり『マゼンタ色の黄昏 マリア外伝』講談社X文庫ホワイトハート、2000年、311頁より)

落山羊

ひとりサークル【ヲンブルペコネ】。

blog:ヲンブルペコネ

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Pさんぽ

第6回

Pさん

今眺めているのとは違う自分がその自動販売機を一瞥もしないで通り過ぎると「○○の木通り」に差し掛かる。その木の名前とは違う檜が、限界まで高く成長して並木を作っている。この木に登ったことはない。高すぎるからではなく木登りを一回もしたことがないからだ。第一、足がかりになる枝分かれなり突起が二メートルの高さまで一つもないのだからこの木を登ることは、ボルダリング用の壁みたいに人間にちょうどよい間隔をあけたカラフルな小石を埋め込んででもいない限り、どんな人間にも不可能であるだろう。今、想像の中でそれがされた。上級者は檜の幹に埋められた赤い小石を使うことなく登ってみよ。ボルダリング上級者は、それまで登ってきた全ボウルダーを抽象化した経験を思い出しつつ、その檜に相対する。棋士に負けずとも劣らない計算力で、可能性の経路が幹を這いずり回って、生成されては消滅する。実際に足を掛けてから次の持ち手をどれにするか迷うのは素人の仕事だ。はじめの石に足を掛けた時点ですべての勝負が決する。石や壁(この場合は木の肌)に負かされるのですらなく、圧倒的に自分に負かされて落ちるのだ。地面に着くまでのほんのコンマ何秒かの間に、ほんとは落ちずに済んだであろう持ち手の経路と、やらなかった握力の鍛錬の回数を数え上げる。すべてが自分の責で何にも押しつけることが出来ない。だからこそ、次に挑戦して、成功したときには、その達成のすべてが自分の喜びに転化するというわけだ。所さんもビックリ。そして今、十メートル近い高さの檜を前に、最初の足を掛ける……。

木を登るスポーツはもとから「ツリークライミング」と呼ぶらしく、僕は先ほども言ったようにどちらもやったことはない。(続く)