崩れる通信

「崩れる本棚」創作コンテンツ用のブログです。

崩れる通信 No.25

こんばんは。崩れる通信です。

今月より、諸事情により隔週更新となってしまいましたが、今後とも同質の連載をお届けしますので、どうかよろしくお願いいたします。

それから、三月二十一日に開催される、テキストレボリューションズ第三回において、わが『崩れる本棚』は、「純文学アンソロジー」なるものを編もうと、目論んでいます。

そちらのほうも、よろしくお願いいたします。期日が近づきましたら、より詳細な告知をしていきたいと思います。

それでは今号の「通信」。一作目、紗那教授『莉子と亜紀の自動車いろは』第五回。タイヤの重要性について。

二作目、クロフネⅢ世『路上観察のすすめ』第六回。物語の源泉である、道中の建造物という発想!

三作目、小五郎『白い教室 落第生のはらわた』第六回。今回も、爆笑引用哲学引用の引用通し。

小五郎さんは、前述の「純文学アンソロジー」にも寄稿していただく予定です。

以上。さあ、読むべし!

(Pさんぽは休載)

莉子と亜紀の自動車いろは

第五回 ~タイヤ編~

紗那教授

「はあ……、酷い目に遭わされた」

六甲山を下り、せっかく三宮まで買い物に来たというのに、亜紀は疲れ切っていた。駐車場に車を停めるや否や、ここは繁華街。人が多くて道は窮屈。余計に疲れそうな気分だった。

「ごめんごめん、つい調子に乗っちゃった。『ミント』でパフェでも奢るから許して」

莉子が苦笑しながら言うと、亜紀の足取りが妙に軽くなる。

「ま、まあ、それなら許してあげよっかな」

彼女はわざと大きな取るが、顔は嬉しさを隠しきれていない。莉子にとって、亜紀のそんな様子は微笑ましかった。

JR三ノ宮駅すぐ前の商業施設『ミント神戸』に入っているスイーツ店で、二人はパフェを美味しく堪能していた。

「どう? 機嫌直してくれた?」

「うん! 莉子の奢りだし」

「それにしても……」

亜紀が頬張っているのはイチゴと、バナナと、チョコと、アイスと、ビスケットがふんだんに詰まったプレミアムパフェ。その価格、実に1,800円。おまけに、弾けるような味わいが特徴のフルーツホッピングソーダ、800円付きだ。

「あたしのお財布が……。2,600円ならハイオク20リットル入るよ……」

「だって、好きなもの頼んでいいって言ったじゃん」

「否定はしないけど、あんまり食べ過ぎると――」

「言うなー!」

亜紀がドリフトを思わせる勢いで莉子の言葉を遮る。

二人はお店出て、亜紀はお手洗いへ、莉子は四人の野口英世たちと別れた悲しみを紛らわすために喫煙所へ向かう。

それぞれ事を済ませ、廊下で二人が落ち合ったとき――

「うわっ!」

亜紀は清掃中という立て札に気づかず濡れたフローリングを踏み、足を滑らせる。

間一髪、莉子が彼女の手首を掴んだので、転倒は避けられた。

「大丈夫?」

「うん……、びっくりしたぁ……」

ひやっとした後に訪れた安堵によって、心臓が小刻みに鼓動する。そして、すぐに疑問が浮かぶ。

「あれ? 莉子、今咄嗟にあたしの体重支えたのに、全然滑らなかったよね?」

「え? ああ、滑りにくい靴だからね」

莉子は立っている状態で右脚の膝を曲げて、靴の裏面を見せる。いくつもの深めの溝が入ったゴムが綺麗に貼られている。

「うー、あたしも今日はそんな靴履いてくればよかった」

亜紀のパンプスの裏は、溝も何もないツルツルな状態だ。

「人の靴も、車のタイヤと一緒だよ。溝がちゃんとあれば滑りにくいし、減っていたりなかったりしたら滑りやすい」

「ここでも車の話を出してくるか……」

「はい、ということで今日はタイヤについてのお話~」

莉子の喋りにスイッチが入る。

「まず、タイヤって自動車のパーツの中でも、とても重要なものなの。だって、どんなにエンジンが素晴らしくても、内装が作り込まれていても、タイヤっていう足がなければ前に進まないでしょ?」

「あー、まあ確かに」

「だから、一言でタイヤって言っても、その中で様々なカテゴリーがあるんだ」

「例えば?」

「ラインナップとしては主にざっとこんな感じかな」

<スタンダードタイヤ>

・その名の通り、標準性能のタイヤ。突出した特徴はない。

・そのため、サイズバリエーションが豊富。多くの車種に対応している。

・コストパフォーマンスにも優れる。

<エコタイヤ>

・転がり抵抗低減の実現により、燃料消費を抑え、環境に優しいタイヤ。

・「転がり抵抗」と「ウェットグリップ」性能のラベルがあり、それを判断基準に選べる。

※筆者はエコタイヤについては、あまり詳しくありません

<スポーツタイヤ>

・サーキット走行にも対応した、フラッグシップタイヤ。

・高いグリップ性能を持っているので、運動性能の高いスポーツカーと相性は抜群。

・高価格帯のものが多いことが難点。

<コンフォートタイヤ>

・路面から受ける衝撃の吸収性や、静粛性の向上が見込める乗り心地重視のタイヤ。

・スポーツ走行という意味ではないが、運動性能にも優れる。

・スポーツタイヤと同じく、プレミアムクラスになると値は張る。

<ミニバンタイヤ>

・車高があり、車体も重くなりがちなミニバンのボディをしっかり支えられるタイヤ。

・タイヤの外側と内側のサイドウォールが、がっちりしていることが特徴。

・ミニバンは日本では人気のボディタイプなので、この中でさらにエコやコンフォート等のラインナップがある。

SUVタイヤ>

・ミニバンと同じく、もしくはさらに重くなりがちなボディをしっかり支えられるタイヤ。

・偏平率が高く、タイヤサイズが大きくなりがちなので、価格も相応に高め。

・快適性重視や運動性重視のものもあるが、SUVならではのオフロードにも強いものもある。

「へぇ~、タイヤって安けりゃ何でもいいって思ってたけど、使用目的によって色々選ぶことができるんだね」

「特にこだわりがないならスタンダードタイヤがいいと思うけど、きびきび走りたいならスポーツ、快適に走りたいならコンフォートっていう感じかな。タイヤは人間で言う、足を司る部分だから、多分車がそんなに好きじゃない人でもその変化は体感できるんじゃないかな。後はやっぱり何と言っても定期的なチェックが大事だね。空気圧の測定とかガソリンスタンドとかで無料でやってくれるところもあるし、溝の減り具合もちゃんとチェックしてね。本当に大事なことだから」

「はーい」

亜紀が半ば適当に返事をした瞬間、彼女は再び足を滑らせる。

紗那教授

個人サークル「教授会」の代表。

コミティア文学フリマなどの創作イベントに出没中。

作品のテイストがそれぞれで異なることが特徴的。

稀に水彩画などのイラストも描く。

「小説家になろう」アカウントページ

路上観察のすすめ

第6回 横須賀路上観察 其の二

クロフネⅢ世

このシリーズを始めた時に、路上観察はそこから想像力を活かし創作へつなげられると説明したと記憶する。路上にある何気ない風景が、観察者の頭を刺激して空想力を掻き立て、創作へと発展させるのではないかという話だ。

では、なぜ何気ない風景が刺激となるのだろうか。ただの階段や坂、その他の構造物の何が脳内に作用しているのだろうか。筆者は少しそこに頭を巡らしてみた。

その結果、至った答えはその風景に潜む『不完全さ』『物足りなさ』である。つまり、そこにある風景が不完全でどこか物足りない空気が漂うからこそ、脳内は補完しようと自助努力して想像を働かせることによってそこに見えない世界を補おうとしているのではなかろうか、という話である。だからこそ、新築マンションや通りを横切る車、洒落たレストランなどの構造物や工業品などには興味がわかないのである。なぜなら、欠損がないゆえに想像するまでもないからだ。そこに宿る物語が比較的容易に頭に描けてしまうからである。ふと見ただけでは物語が展開しない、創造力が試される風景だからこそ、人は路上の不完全品に目を向ける、そう思えてならない。

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たとえば、上記の写真を見ていただこう。

本当に何気ない路上で見かけた光景だ。

崖の下に施された扉。使用用途は筆者にもわからない。まともに考えれば、倉庫か何かなのだろう。もしくは、戦時中に造られた防空壕の名残。

しかし、倉庫かどうかは開けてみるまでは分からないし、倉庫でなければその先に何が続いているのかは容易に想像できない。シュレディンガーの扉、とでも呼べばいいか。また、扉の下のブロックがポイントになる。

さて、前置きが長くなったので、ここからは写真のオンパレードといこう。実は、去年11月に引き続き横須賀の路上観察を行ってきた。今回通ったルートは、汐入駅から坂本町へ続く坂を登りそのまま池上方面へ向かい、池上十字路から金谷経由で衣笠駅へ向かう、という感じだ。

途中までは、アニメ「たまゆら」の聖地としても知られる場所が幾つか点在している場所でもある。しかし、それは路上観察とはまた違う趣向になるので省略。

更に、長々とした説明も省略。とにかく、写真を見て何かを感じ取ってほしい。

何かを感じ、その欠損から塑像力を働かせ、独自の物語までに発展させるのが路上創作であるのだから。言葉よりも、感じてほしい。

では、どうぞ!

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で、さっそくこの写真。右に階段、左にちょい崖。この黄色い手すりも洒落ているよね。高低差が本当にちょっとした程度というのがポイント高い。これでも崖ですと堂々と主張している様が抱きしめたくなる。

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崖と言えば、崖の上のなんちゃらという作品を思い出すが、こちらは崖の上の……寺! そう、寺だ。本堂が崖へ向かってせり出しているのが迫力ある。

崖の上のなんちゃらでなく、天空の寺、と呼ぶべきか。

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こちらも崖写真。

最初に載せた写真と同類。崖に穿たれた穴を再利用しているのがたくましい。

横須賀では、この手の穴が穿たれた崖をよく見かける。当初は別の用途だったのだろうが、今ではすっかりと駐車場である。再利用万歳!

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そして、こいつだ。

壁画の方じゃないぞ。そう、二手に分かれた階段だ、

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もう一枚いこうか。

その名も、二択階段。

あなたなら、どちらに進む? 筆者は左のジグザグな方を選択。

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勢いに任せて更にもう一枚だ!

左側なんて、行きつく先は個人宅。もはや、専用階段となっている。

どうだろう、もはや横須賀の階段に夢中になったのではなかろうか。

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二択階段ではないが、こんな階段も魅力的。

階段を上ろうとすれば……

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お出迎え付きだよ!

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建物の壁面だって魅力的に見えてくるから路上観察は不思議だ。

左の梯子が、まさに頭の中の想像力を刺激するよね。屋上に何があるのか想像してみよう。

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そこに、外階段が備わっていれば、更に魅力的。

各扉を開けていくと……さあ、想像力を働かせて!

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まだまだ外階段付きビル。

ほらね! ステキ!

曇り空にちょっと陰鬱となる薄汚れた壁面が印象的。どんな想像が頭を覆い尽くすのかな?

まとめ

いかがであっただろう。

今回は、有無を言わさず横須賀を舞台にして路上空間の魅力を写真から感じ取っていただいた。こうして連続で写真を掲載することにより路上の隠れた魅力を読み取っていただけたと思う。

……読み取れたよね?

さらに、崩れる本棚さんの読者なら、そこから物語を引き出せるはずだ。

是非とも、路上小説を書き進めてほしい。あなたの街に潜む路上光景からも、何か作品を仕上げられるはずだから。

クロフネⅢ世

企画型サークル『男一匹元気が出るディスコ』。

無茶振りありきの創作。普通じゃない作品を求めるならOGDヘ。

webサイト:K.K.Theater

白い教室 ~落第生のはらわた~

第6回

小五郎

さて、この脱領域の哲学エッセイは、いままでに、サルトルバタイユブランショ(デュラス)、ランボードゥルーズとフランス勢を昨年9月から毎月1回のペースで5か月間続けてきた。

途中、パリ同時多発テロなども起こったが、現在スイスではシリアの和平協議が行われているそうなので、一刻も早くシリアが平和になってほしいと願うばかりだ。

そして、当エッセイも一つの区切りとして、今回からフランスをとうとう離れ、お次はフランスの隣国であり、欧州のリーダーでもあるドイツにまつわる哲学者や文学者にシフトして論考を重ねてゆきたいと思うので悪しからず。

というわけでドイツ編一発目のありがたい御託宣は、ハンナ・アレント(1906―1975)の『人間の条件』(志水速雄訳・ちくま学芸文庫)に記された以下の文章である。

ローマ人の言葉では、「生きる」ということと「人びとの間にある」ということ、あるいは「死ぬ」ということと「人びとの間にあることを止める」ということは同義語として用いられた。

(P20)

アレントと言えば、2013年にマルガレーテ・フォン・トロッタ監督の『ハンナ・アーレント』(2012・独)が日本公開され、一躍再注目され、『林先生の痛快!生きざま大辞典』(TBS)で遅まきながら取り上げられたほどだ。

それらでは、アレントが、ナチスのアイヒマンのアウシュヴィッツ強制収容所でのガス室送りによる大量殺戮を「凡庸な悪」として一蹴したことのユダヤ側からの物議が特にスポットライトを浴びた。

林修の深夜番組では『人間の条件』も紹介されたはずだ。

詳しい内容は忘却したが、この本の冒頭には先に引用した文の前に次のような考えも述べられている。

<活動的生活>という用語によって、私は三つの基本的な人間の活動力、すなわち、労働、仕事、活動を意味するものとしたいと思う。

(P19)

ちなみにアレントは、この労働、仕事、活動を原語(英語)では、labor、work、actionとしている。

これら三つの違いは詳述されているが、簡潔にまとめるなら、労働は生命の消費、仕事は生命を超えた物の永遠の世界性となり、活動は、人と人との間にある多数性だと述べる。

そしてアレントは、人間が生きるうえで、特に必要なのは活動だと主張する。

なんだか、平野啓一郎の分人主義みたいだが、あれは風見鶏だ。

アレントの言わんとする多数性は、自己同一性の根幹にちゃんと基づくもので、平野は表面的なグラグラの場当たり主義でしかない。

といっても、わたくしが敬愛してやまない中原昌也は、2015年11月10日のツイッター

いろいろ浮遊しているものの繋ぎ目があるだけで、「私」というものは存在しない

と書き込んでいた。

確かにそうだ。

しかし、平野の『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(講談社新書)の分人主義と、中原のツイッターは、酷似しているものの果たして同意見と言い切れるのだろうか?

例えば、Eテレの『心と脳の白熱教室』において、英国のオックスフォード大学のエレーヌ・フォックス教授は、「人生のコントロールができる感覚」の重要性を語っていた。

だが、そう易々と人生をコントロールすることは不可能に近い。

フォックス教授は、「感情のコントロール」の大切さも語っていた。

要はコントロールができる結果よりコントロールしようとする意志の過程こそが必要なのではないだろうか。

それこそが他者に振り回される危険の大きい平野の分人主義より、自己がコントロールできる余地が多い中原の「浮遊しているものの繋ぎ目」との違いなのではないか?

古井由吉は、『すばる』(2008年2月号 集英社)の「講演 書く 生きる」において

人間は自分のことがわからないものなのです

(P149)

と喝破する。

確かにその通りだ。

島本和彦の『アオイホノオ』(4巻 小学館)では

若者はそれぞれ一人一人が心の中に傲慢なキングダムを持っている

(P38)

と語っている。

自己同一性は多数ある。

王も神も複数ある。

それを十把一絡げに、合一しようとすると問題が多く生じる。

平野の分人主義は、他者の間の私の複数性を肯定せよと主張する。

繰り返しになるが、それは他者に主導権を握られ、勝手に自己同一性を決定されてしまう怖れを感じざるを得ない。

自分にも判らないことが、他人に判るはずがない。

アレント、並びに中原の「私」の多数性は、決して勝手に自己同一性を押しつけない。

なにものでもない自己の無をコントロールしようとするのだ。

もちろん、無であるためには、動き回らなければならない。

(了)

小五郎

今年13年目のメルキド出版の眼鏡の弟

twitter:@ngz55

blog:小五郎の日記

崩れる通信 No.24

みなさん、お久しぶりです。崩れる本棚、「崩れる通信」担当の、Pさんです。先週は自己都合によりお休みしましたこと、お詫び申し上げます。

そして、悲しいお知らせがあります。

毎月第一週に連載していただいていた、落山羊さんの「えいえんの少女と小説」が、休載の運びと相成りました。

今まで、質の高いエッセイを寄せていただき、ありがとうございました。この場を借りまして御礼申し上げます。

その他、実質上休載の方が数名いらっしゃることも受け、今後、崩れる通信の更新は月二回の隔月にさせていただきます。

あしからず。

詳細は、トップページの「まにふぇすと」に記載しますので、皆様御笑覧下さいませ。

さて、今週の更新です。

一作目、憂野さん「ホニャホニャプーの管」。道端に転がるナゾの物体をフィクションの力で解明していこうというコーナー。妄想力爆発、クる人にはクる名コーナーです。

二作目、秋月千津子さんの「文具語り」。さまざまな種類の文具を紹介していきます。

三作目、タクイさんの「jazzgame」。毎回オーディオにまつわる話を寄せていただいています。

四作目、Pさんの「作家が入院中の老人のお見舞いに行った」。最近抱えている原稿の助走として、更新前に書きました。

以上。鈍行の崩れるエクスプレスに乗車いただき、まことにありがとうございます、全国を突っ走る環状線の特急列車は、ノンストップで、あらゆる駅に停まります。

キキー。

ホニャホニャプーの管

第2回

憂野

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民家の脇、側溝に数メートルある長い管が設置されている。僕はこの管がなぜここにあるのか、その経緯を記そう。

この管は幾年か前までは右手に見えます民家こと、五里山・御リラ・音子家で使用されていた。五里山さんは中世ヨーロッパからタイムスリップしてきた未来人で、古生代の昨今では珍しいペットをお飼いになられていたそうな。

そのペットというのがヌメェラッゾゴンです。

ヌメェラッゾゴンヌの姿形はまるで人間ですが、僕らの時代でいうナメクジの進化した生き物だそうで、雌雄同体、顔が五〇代の疲れ切ったおっさん、鳴き声はなまぐさいため息、体は長さ約三メートル、横幅約八センチ、粘液に覆われていて常にぬめりがある、そんな生き物。このヌメェラッゾゴンヌプ、細長い筒状の巣で暮らし、外へ出るとぴくりとも動きません。お前は僕か。ははは。ちなみに僕は日の光を浴びると除光液になるので死にます。

……話がそれましたが、五里山さんはなんとか家で飼おうと四苦八苦、家じゅうに写真の細い管を張り巡らしました。地下から室内、それはもうありとあらゆるところに。それが悲劇の幕開けだった。

ここ、埼玉県深海都市獅子市には、地底猫という地猫が大量発生していて地元住民とうまくやっている。そんなあるとき、六〇度超の猛暑が続く異常気象、地底猫は暑いと地面に潜る習性があるのでわれ先にと潜る。しかし地中で息絶え、地下でどんどんと腐敗していく。地元住民は地中猫の異変に気付かず、数日が過ぎた。

ヌメェラッゾゴンヌプスが餌の時間になっても管から顔を見せないと、五里山さんはおおさわぎ。助け合いの精神でご近所さんは捜索を手伝いました。その結果、みんな死にました。

地中に溜まった地底猫の死体はちょうど五里山さんの家の真下にあったようで、ヌメェラッゾコンヌプススの巣にガスが充満、マッチを擦った馬鹿のせいで大爆発。キノコ雲。それでも地元住民のめざましい努力により半日でもとどおり。管と家は未来技術による超硬度でビクともしませんでしたよ。

この事故で息子を失った市議は原因を究明すべく職権乱用、莫大な予算を使い研究チームを結成したが、保健所が三十分で原因を明らかにし、お金を研究チームに持ち逃げされバッシング、のちに暗殺された。群衆の中からタラバガニの殻を削った短剣を持った男が突進してきて暗殺された。カニ男はスタッフが責任を持っておいしくいただいた。イコール死。はっきり言います。彼は死にました。県が密かに開発した触手地獄にぶち込まれて死んだ。死んだのだ。人間の命とは儚いもので、触手にもてあそばれただけで消えるのだ。触手はじゃれついているだけなのだ、触手に罪はない。罪があるのはバッカモーン、そいつがミドリガメ亀雄だ!全人類。おや、なんだ今の雑念は。

新たに市長になった熊本バッカルコーンバッカ市長は市長としてとても優秀な市長だったのでヌメェラヌヌヌヌヌヌヌソンナカンジノ市長の巣に使われていた管市長を再利用市長、ガス抜き装置に市長使っ市長。

突然だけど、君は神様を信じるかい?僕は市長が神なんじゃないかって思うなぁ、だってこんなにおいしい丸薬をくれるんだ、この丸薬はね、飲み込むと多幸感に包まれて市長のことしか考えられなくなるんだ!スバラシイだろう?君もひっこしておいでよ、市民はタダでもらえるんだぜ。え?なに?ああ、管の話の続き?はいはい。

今じゃあすっかりガスも抜け、地底猫は市長が素手で皆殺しにして触手地獄に送りこみ万事解決。管は町中に残ったけど、この丸薬が地下にある市長室から直に送られてくるってわけさ。この写真は丸薬フリースポットのひとつを写したもので、丸薬に市民以外が触れると拒絶反応で腸内細菌がビッグバン、木っ端みじんだから気をつけろよって説明の写真だ。君もおいでよK市。

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突然ですがここで問題です。これなーんだ。

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正解はしいたけでした~!ふにゃふにゃ~!

次回もお楽しみに!

憂野

たぶん人間。

文具語り

第7回

秋月千津子

皆様、明けましておめでとうございます。新年一発目の文具語りでございます。

新年ということで、ちょっと文体を変えてやっていこうと思います。今年もどうぞよろしくお付き合い下さいませ。

先月の文具語りでは「文房具の福袋」について語ってみましたが、皆様無事ゲットできましたか? 私は一番狙っていた無印良品の福袋は逃してしまったのですが、地元の書店でグリーティングカードの会社ホールマークさん(https://www.hallmark.jp/)の福袋を手に入れることができました。

A6判のミニノート3冊セット、メモ帳、グリーティングカード5種、レターパッド&封筒セット2種、ふせん2種……これだけ入って1000円だったのでとてもお買い得ですね。ふせんは「うらアリふせん」という、表裏両面に絵が付いた珍しいもので、こんな商品も世に出ていたのか! という驚きもあって嬉しかったです。

さて今月は、少し早いですが、年度末を見据えて、別れの季節のマストアイテム「色紙」について語ろうと思います。「いろがみ」ではありませんよ、「しきし」です。サインもらったりするあれですね。

私が学生の頃というのは、色紙というと白い真四角のものしかほぼ売っていませんでした。色紙の真ん中に相手のお名前などを書いて、その周りにメッセージを寄せ書きする……今でも非常にメジャーな色紙のスタイルですね。

でも、このスタイルだと、

・たくさんの人で寄せ書きする場合、回すのが大変

・寄せ書きのバランスが悪くなり、見た目がいまいちになってしまうことがある

・絵がないと、なんとなく寂しくなりがち

などの問題もあると思うのです。

そこで、おすすめは台紙&シールスタイルの色紙です。書いてもらう人それぞれにシールを渡しておき、後で回収して台紙に貼るのです。これならばバランス良く綺麗に貼ることができますから、見た目も良く仕上がります。また、メッセージが少なくても華やかな印象になるので、書く人が少ない少人数の職場や部活の寄せ書きにも良いと思います。

シール部分だけでも売られていますので、台紙とシールの組み合わせ方を工夫したり、大人数の職場や学校の寄せ書きでは、二つ折りや三つ折りの色紙に貼り付けたりとアレンジすると良いかもしれません。このシール式、今ではかなりメジャーになっているようで、100円ショップなどでもたまに見かけるようになりました。100均と言えども可愛いデザインのものが多かったので、お安く済ませたい方や、まずはどんなものか試しに……という方は是非覗いてみてください。

また、こちらは主に少人数で渡す場合なのですが、色紙の代わりに花束をイメージした、ブーケ風のメッセージカードを渡すというのも素敵かもしれません。

http://item.rakuten.co.jp/bunguya/gli03/

お花の形をしたメッセージカードにそれぞれ書き込んでもらい、集めたらリボンで束ねて花束のようにして渡す、というカードです。オシャレですし、珍しいタイプのグリーティングカードなので、もらった方も印象に残るかもしれませんね。

色紙について書くならば、当然ペンについても語らない訳にはいきません。色紙に書くのに適したペンとはどんなペンでしょうか?

ここで大事なのは使われているインクの種類です。ペンには「染料インク」を使ったものと「顔料インク」を使ったものがあるのですが、顔料の方が耐水性・耐光性が高く、長く保存しておきたいものには適していると言われています。

もっとわかりやすく詳しい解説が、私の愛する三菱鉛筆さんのHPに載っていたので、興味のある方は読んでみて下さい。

http://www.mpuni.co.jp/customer/ans_33.html

具体的な商品名を挙げるならば、三菱鉛筆の「プロッキー」や、ゼブラの「紙用マッキー」あたりを使うと、色あせずに長持ちすると思います。

http://www.mpuni.co.jp/products/felt_tip_pens/water_based/sign_pen/prockey.html

http://www.zebra.co.jp/pro/paper-mackee/

お別れの季節がやってくるのが本当に寂しいこともあると思いますが、素敵な台紙と長持ちするペンで、気持ちよく送り出してあげましょう!

秋月千津子

個人サークル「深海の記憶」で活動中のインディーズ小説家。

Twitter:@akizuki_chizuko

音楽とラジオと音

第3回「jazzgame」

yoshiharu takui

きょう、ぼくは新しいラジオを手に入れた。25を超えたサラリーマンの身には、ハイファイラジオの物品税はまだ高い。それで高周波キットや真空管を買ってコツコツと作っていたものが、やっと完成したのだ。

そのラジオを点けてみる。1130キロサイクルの文化放送に合わせたら、番組がはじまった。

「ラジオをお聞きのみなさん、また会場のみなさんこんばんは。ご機嫌いかがですか、司会のロイ・ジェームスです。洋酒の壽屋がこれからのひととき皆様にお送りする、ジャズとクイズのトリスジャズゲーム。今宵も東京有楽町ヴィデオホールに満員のお客様をお迎えしての公開放送でございます」

「それではバンドメンバーをご紹介しましょう、ドラム・ジョージ川口!ベース・上田剛!ピアノ・中村八大!テナーサックス・松本英彦!」

ジョージ川口とビッグフォーの演奏が聴こえてくる。今まで使っていたラジオでも聞いていた番組なのに、格段にハイファイじゃないか!

ドラムの低い音がよく聴こえてくるし、サックスもピアノもホールそのままのきれいな音色だ。

会場の人々からのリクエストでビッグフォーが一曲演奏してから、江利チエミが出てきた。彼女もずっとジャズを歌っていて、名前を耳にしない日はないくらいだ。

「シャンハイ」という珍しい曲のあと、会場の人々にリクエストを問いかける。「ハイ!ハイ!」という挙手の多いことは、まるで小学校の教室を見ているようだった。

チエミはそのリクエストに応えて「テネシーワルツ」を歌っていた。3年ほど前、この曲で江利チエミを知ったのだけれど、その頃のレコードよりずっと堂々としていながら艶もある。本当に上手かった。

しかもチエミの歌だけでなく、リクエストに応えてその場で弾くビッグフォーの演奏力が恐ろしく高いのだ。あまりにも驚いた。

江利チエミが去った後、ビッグフォーの生演奏で「枯葉-ラ・メール-ラヴィアンローズ」。このシャンソンの数珠繋ぎが美しい。

聴いているうちに、夢心地の25分はすぐに過ぎた。

「全国の皆様、また会場の皆様と一緒に溶け合って楽しく過ごしてまいりました、洋酒の壽屋提供トリスジャズゲーム、今宵はこの辺で皆様とお別れでございます。演奏メンバーは、ドラムジョージ川口、ベース上田剛、ピアノ中村八大、テナーサックス松本英彦、今夜のゲストは江利チエミ、司会ロイ・ジェームスでした。ではみなさん、また来週をお楽しみに、ご機嫌よう!さようなら」

ラジオからこの声が聴こえ、そっけなく番組が終わった。けれども、ホールでの生演奏を家で、ぼくが自分で作った新しいラジオで聴けたことの喜びはいつまでも残る。

また来週も再来週も、この番組を聴きたいと思う。

【言葉の解説】

・物品税

以前は高額品・贅沢品に物品税がかかっていた。特にラジオや、1950年代当時の言葉で「電蓄」といわれたオーディオシステムの物品税は高価だったが

部品を集めて自分で作ることで、税金をかけずに性能の高いオーディオシステムを持つこともできた。

・キロサイクル

現在のキロヘルツ(kHz)と同じ意味で使われた周波数の単位。

・『トリスジャズゲーム』

1950年代半ば、文化放送で放送されていたラジオ番組で、洋酒の壽屋(現在のサントリー)がスポンサーの公開放送。

観客からのリクエストに「ジョージ川口とビッグ・フォー」が即興演奏で応えていく。

江利チエミをゲストに迎えて、1955年4月14日に放送されたこの番組は、横浜市放送ライブラリーで聴くことができる。

作家が入院中の老人のお見舞いに行った

Pさん

重要な言葉と重要ではない言葉。全てが重要な言葉なのではない。ある老人に会いに行った作家の話。その人は入院中で作家はお見舞いに行った。道路に面した土地。鏡だらけの部屋。カーテンは閉まり床にカラフルなビーンズが散らばっている。夜間迷惑行為が見られる。その家の向かいの病院に入院している老人に作家がお見舞いに来て

「こんにちは。お久しぶりです」

と言ったのかどうか定かではない。

老人は体力的には割と消耗していたにもかかわらず元気だった。作家がそう言っている。作家が老人に話しかける。老人も口を動かしたまま話に応える。他人同士であればそもそも暗い空気が流れようもないので二人で明るく話していたのであろう、それに関してはそれ以外のパターンが考えられない。医者が建物の中に一人はいる施設。すくなくとも日中はそうだろう。日中は? いつお見舞いに訪室したのだろう。作家は明らかにしていないから想像する。想像は自由でありかなりの権利だ。そう言っている。明るいところばかり想像して暗いところは想像しない。人間は感覚と記憶と経験を持っていて感覚を記憶し経験として蓄積する技術を持つ生物は人間のほかにはいない。暗い人間は想像しないわけではない。病室の採光について考えた人間がどこかにいる。

ひととおり作家が話したあとで、ふと

「次に会えるだろうか」

と、思ってしまった。ふとした思いつきが作家の周りに急にヒラヒラしはじめて作家はそう思ってしまったことを後悔した。老人は意に介さず、そもそも

「次に会えるだろうか」

と思ってしまったことを作家は口にしていなかった。口を動かすときの言葉ではなかったということだ。作家が

「次に会えるだろうか」

と思ってしまった瞬間を想像する。想像は自由であり権利である、ナントカは自由であり権利である、という言葉をどんなものにも当てはめることが出来る。重要ではない言葉で身体の回りをヒラヒラさせている人間は人間の明るいところばかり想像して暗いところを想像しようとしない。一人称と二人称の間に区別を設けない。第三者保証機関が存在するだけだ。とする。

存在は第三者に保証される。

会話の間に自省が混ざるととたんに直線的には進まなくなりそういう会話を想像することはなかなか難しいのに想像する。日差しがカーテンを完全に閉め切った鏡だらけの部屋にスッて差し込んだ瞬間みたいに兆す自省。止まるのでも加速するのでもなく複雑な磁界みたいに擾乱する。

そんな自省の生まれる瞬間だけが会話だと作家は言いたかったのだろうか。

作家がお見舞いに行った老人の名前は北杜夫といった。