崩れる通信 No.25
こんばんは。崩れる通信です。
今月より、諸事情により隔週更新となってしまいましたが、今後とも同質の連載をお届けしますので、どうかよろしくお願いいたします。
それから、三月二十一日に開催される、テキストレボリューションズ第三回において、わが『崩れる本棚』は、「純文学アンソロジー」なるものを編もうと、目論んでいます。
そちらのほうも、よろしくお願いいたします。期日が近づきましたら、より詳細な告知をしていきたいと思います。
それでは今号の「通信」。一作目、紗那教授『莉子と亜紀の自動車いろは』第五回。タイヤの重要性について。
二作目、クロフネⅢ世『路上観察のすすめ』第六回。物語の源泉である、道中の建造物という発想!
三作目、小五郎『白い教室 落第生のはらわた』第六回。今回も、爆笑引用哲学引用の引用通し。
小五郎さんは、前述の「純文学アンソロジー」にも寄稿していただく予定です。
以上。さあ、読むべし!
(Pさんぽは休載)
莉子と亜紀の自動車いろは
第五回 ~タイヤ編~
「はあ……、酷い目に遭わされた」
六甲山を下り、せっかく三宮まで買い物に来たというのに、亜紀は疲れ切っていた。駐車場に車を停めるや否や、ここは繁華街。人が多くて道は窮屈。余計に疲れそうな気分だった。
「ごめんごめん、つい調子に乗っちゃった。『ミント』でパフェでも奢るから許して」
莉子が苦笑しながら言うと、亜紀の足取りが妙に軽くなる。
「ま、まあ、それなら許してあげよっかな」
彼女はわざと大きな取るが、顔は嬉しさを隠しきれていない。莉子にとって、亜紀のそんな様子は微笑ましかった。
JR三ノ宮駅すぐ前の商業施設『ミント神戸』に入っているスイーツ店で、二人はパフェを美味しく堪能していた。
「どう? 機嫌直してくれた?」
「うん! 莉子の奢りだし」
「それにしても……」
亜紀が頬張っているのはイチゴと、バナナと、チョコと、アイスと、ビスケットがふんだんに詰まったプレミアムパフェ。その価格、実に1,800円。おまけに、弾けるような味わいが特徴のフルーツホッピングソーダ、800円付きだ。
「あたしのお財布が……。2,600円ならハイオク20リットル入るよ……」
「だって、好きなもの頼んでいいって言ったじゃん」
「否定はしないけど、あんまり食べ過ぎると――」
「言うなー!」
亜紀がドリフトを思わせる勢いで莉子の言葉を遮る。
二人はお店出て、亜紀はお手洗いへ、莉子は四人の野口英世たちと別れた悲しみを紛らわすために喫煙所へ向かう。
それぞれ事を済ませ、廊下で二人が落ち合ったとき――
「うわっ!」
亜紀は清掃中という立て札に気づかず濡れたフローリングを踏み、足を滑らせる。
間一髪、莉子が彼女の手首を掴んだので、転倒は避けられた。
「大丈夫?」
「うん……、びっくりしたぁ……」
ひやっとした後に訪れた安堵によって、心臓が小刻みに鼓動する。そして、すぐに疑問が浮かぶ。
「あれ? 莉子、今咄嗟にあたしの体重支えたのに、全然滑らなかったよね?」
「え? ああ、滑りにくい靴だからね」
莉子は立っている状態で右脚の膝を曲げて、靴の裏面を見せる。いくつもの深めの溝が入ったゴムが綺麗に貼られている。
「うー、あたしも今日はそんな靴履いてくればよかった」
亜紀のパンプスの裏は、溝も何もないツルツルな状態だ。
「人の靴も、車のタイヤと一緒だよ。溝がちゃんとあれば滑りにくいし、減っていたりなかったりしたら滑りやすい」
「ここでも車の話を出してくるか……」
「はい、ということで今日はタイヤについてのお話~」
莉子の喋りにスイッチが入る。
「まず、タイヤって自動車のパーツの中でも、とても重要なものなの。だって、どんなにエンジンが素晴らしくても、内装が作り込まれていても、タイヤっていう足がなければ前に進まないでしょ?」
「あー、まあ確かに」
「だから、一言でタイヤって言っても、その中で様々なカテゴリーがあるんだ」
「例えば?」
「ラインナップとしては主にざっとこんな感じかな」
<スタンダードタイヤ>
・その名の通り、標準性能のタイヤ。突出した特徴はない。
・そのため、サイズバリエーションが豊富。多くの車種に対応している。
・コストパフォーマンスにも優れる。
<エコタイヤ>
・転がり抵抗低減の実現により、燃料消費を抑え、環境に優しいタイヤ。
・「転がり抵抗」と「ウェットグリップ」性能のラベルがあり、それを判断基準に選べる。
※筆者はエコタイヤについては、あまり詳しくありません
<スポーツタイヤ>
・サーキット走行にも対応した、フラッグシップタイヤ。
・高いグリップ性能を持っているので、運動性能の高いスポーツカーと相性は抜群。
・高価格帯のものが多いことが難点。
<コンフォートタイヤ>
・路面から受ける衝撃の吸収性や、静粛性の向上が見込める乗り心地重視のタイヤ。
・スポーツ走行という意味ではないが、運動性能にも優れる。
・スポーツタイヤと同じく、プレミアムクラスになると値は張る。
<ミニバンタイヤ>
・車高があり、車体も重くなりがちなミニバンのボディをしっかり支えられるタイヤ。
・タイヤの外側と内側のサイドウォールが、がっちりしていることが特徴。
・ミニバンは日本では人気のボディタイプなので、この中でさらにエコやコンフォート等のラインナップがある。
<SUVタイヤ>
・ミニバンと同じく、もしくはさらに重くなりがちなボディをしっかり支えられるタイヤ。
・偏平率が高く、タイヤサイズが大きくなりがちなので、価格も相応に高め。
・快適性重視や運動性重視のものもあるが、SUVならではのオフロードにも強いものもある。
「へぇ~、タイヤって安けりゃ何でもいいって思ってたけど、使用目的によって色々選ぶことができるんだね」
「特にこだわりがないならスタンダードタイヤがいいと思うけど、きびきび走りたいならスポーツ、快適に走りたいならコンフォートっていう感じかな。タイヤは人間で言う、足を司る部分だから、多分車がそんなに好きじゃない人でもその変化は体感できるんじゃないかな。後はやっぱり何と言っても定期的なチェックが大事だね。空気圧の測定とかガソリンスタンドとかで無料でやってくれるところもあるし、溝の減り具合もちゃんとチェックしてね。本当に大事なことだから」
「はーい」
亜紀が半ば適当に返事をした瞬間、彼女は再び足を滑らせる。
路上観察のすすめ
第6回 横須賀路上観察 其の二
このシリーズを始めた時に、路上観察はそこから想像力を活かし創作へつなげられると説明したと記憶する。路上にある何気ない風景が、観察者の頭を刺激して空想力を掻き立て、創作へと発展させるのではないかという話だ。
では、なぜ何気ない風景が刺激となるのだろうか。ただの階段や坂、その他の構造物の何が脳内に作用しているのだろうか。筆者は少しそこに頭を巡らしてみた。
その結果、至った答えはその風景に潜む『不完全さ』『物足りなさ』である。つまり、そこにある風景が不完全でどこか物足りない空気が漂うからこそ、脳内は補完しようと自助努力して想像を働かせることによってそこに見えない世界を補おうとしているのではなかろうか、という話である。だからこそ、新築マンションや通りを横切る車、洒落たレストランなどの構造物や工業品などには興味がわかないのである。なぜなら、欠損がないゆえに想像するまでもないからだ。そこに宿る物語が比較的容易に頭に描けてしまうからである。ふと見ただけでは物語が展開しない、創造力が試される風景だからこそ、人は路上の不完全品に目を向ける、そう思えてならない。
たとえば、上記の写真を見ていただこう。
本当に何気ない路上で見かけた光景だ。
崖の下に施された扉。使用用途は筆者にもわからない。まともに考えれば、倉庫か何かなのだろう。もしくは、戦時中に造られた防空壕の名残。
しかし、倉庫かどうかは開けてみるまでは分からないし、倉庫でなければその先に何が続いているのかは容易に想像できない。シュレディンガーの扉、とでも呼べばいいか。また、扉の下のブロックがポイントになる。
さて、前置きが長くなったので、ここからは写真のオンパレードといこう。実は、去年11月に引き続き横須賀の路上観察を行ってきた。今回通ったルートは、汐入駅から坂本町へ続く坂を登りそのまま池上方面へ向かい、池上十字路から金谷経由で衣笠駅へ向かう、という感じだ。
途中までは、アニメ「たまゆら」の聖地としても知られる場所が幾つか点在している場所でもある。しかし、それは路上観察とはまた違う趣向になるので省略。
更に、長々とした説明も省略。とにかく、写真を見て何かを感じ取ってほしい。
何かを感じ、その欠損から塑像力を働かせ、独自の物語までに発展させるのが路上創作であるのだから。言葉よりも、感じてほしい。
では、どうぞ!
で、さっそくこの写真。右に階段、左にちょい崖。この黄色い手すりも洒落ているよね。高低差が本当にちょっとした程度というのがポイント高い。これでも崖ですと堂々と主張している様が抱きしめたくなる。
崖と言えば、崖の上のなんちゃらという作品を思い出すが、こちらは崖の上の……寺! そう、寺だ。本堂が崖へ向かってせり出しているのが迫力ある。
崖の上のなんちゃらでなく、天空の寺、と呼ぶべきか。
こちらも崖写真。
最初に載せた写真と同類。崖に穿たれた穴を再利用しているのがたくましい。
横須賀では、この手の穴が穿たれた崖をよく見かける。当初は別の用途だったのだろうが、今ではすっかりと駐車場である。再利用万歳!
そして、こいつだ。
壁画の方じゃないぞ。そう、二手に分かれた階段だ、
もう一枚いこうか。
その名も、二択階段。
あなたなら、どちらに進む? 筆者は左のジグザグな方を選択。
勢いに任せて更にもう一枚だ!
左側なんて、行きつく先は個人宅。もはや、専用階段となっている。
どうだろう、もはや横須賀の階段に夢中になったのではなかろうか。
二択階段ではないが、こんな階段も魅力的。
階段を上ろうとすれば……
お出迎え付きだよ!
建物の壁面だって魅力的に見えてくるから路上観察は不思議だ。
左の梯子が、まさに頭の中の想像力を刺激するよね。屋上に何があるのか想像してみよう。
そこに、外階段が備わっていれば、更に魅力的。
各扉を開けていくと……さあ、想像力を働かせて!
まだまだ外階段付きビル。
ほらね! ステキ!
曇り空にちょっと陰鬱となる薄汚れた壁面が印象的。どんな想像が頭を覆い尽くすのかな?
まとめ
いかがであっただろう。
今回は、有無を言わさず横須賀を舞台にして路上空間の魅力を写真から感じ取っていただいた。こうして連続で写真を掲載することにより路上の隠れた魅力を読み取っていただけたと思う。
……読み取れたよね?
さらに、崩れる本棚さんの読者なら、そこから物語を引き出せるはずだ。
是非とも、路上小説を書き進めてほしい。あなたの街に潜む路上光景からも、何か作品を仕上げられるはずだから。
白い教室 ~落第生のはらわた~
第6回
さて、この脱領域の哲学エッセイは、いままでに、サルトル、バタイユ、ブランショ(デュラス)、ランボー、ドゥルーズとフランス勢を昨年9月から毎月1回のペースで5か月間続けてきた。
途中、パリ同時多発テロなども起こったが、現在スイスではシリアの和平協議が行われているそうなので、一刻も早くシリアが平和になってほしいと願うばかりだ。
そして、当エッセイも一つの区切りとして、今回からフランスをとうとう離れ、お次はフランスの隣国であり、欧州のリーダーでもあるドイツにまつわる哲学者や文学者にシフトして論考を重ねてゆきたいと思うので悪しからず。
というわけでドイツ編一発目のありがたい御託宣は、ハンナ・アレント(1906―1975)の『人間の条件』(志水速雄訳・ちくま学芸文庫)に記された以下の文章である。
ローマ人の言葉では、「生きる」ということと「人びとの間にある」ということ、あるいは「死ぬ」ということと「人びとの間にあることを止める」ということは同義語として用いられた。
(P20)
アレントと言えば、2013年にマルガレーテ・フォン・トロッタ監督の『ハンナ・アーレント』(2012・独)が日本公開され、一躍再注目され、『林先生の痛快!生きざま大辞典』(TBS)で遅まきながら取り上げられたほどだ。
それらでは、アレントが、ナチスのアイヒマンのアウシュヴィッツ強制収容所でのガス室送りによる大量殺戮を「凡庸な悪」として一蹴したことのユダヤ側からの物議が特にスポットライトを浴びた。
林修の深夜番組では『人間の条件』も紹介されたはずだ。
詳しい内容は忘却したが、この本の冒頭には先に引用した文の前に次のような考えも述べられている。
<活動的生活>という用語によって、私は三つの基本的な人間の活動力、すなわち、労働、仕事、活動を意味するものとしたいと思う。
(P19)
ちなみにアレントは、この労働、仕事、活動を原語(英語)では、labor、work、actionとしている。
これら三つの違いは詳述されているが、簡潔にまとめるなら、労働は生命の消費、仕事は生命を超えた物の永遠の世界性となり、活動は、人と人との間にある多数性だと述べる。
そしてアレントは、人間が生きるうえで、特に必要なのは活動だと主張する。
なんだか、平野啓一郎の分人主義みたいだが、あれは風見鶏だ。
アレントの言わんとする多数性は、自己同一性の根幹にちゃんと基づくもので、平野は表面的なグラグラの場当たり主義でしかない。
といっても、わたくしが敬愛してやまない中原昌也は、2015年11月10日のツイッターで
いろいろ浮遊しているものの繋ぎ目があるだけで、「私」というものは存在しない
と書き込んでいた。
確かにそうだ。
しかし、平野の『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(講談社新書)の分人主義と、中原のツイッターは、酷似しているものの果たして同意見と言い切れるのだろうか?
例えば、Eテレの『心と脳の白熱教室』において、英国のオックスフォード大学のエレーヌ・フォックス教授は、「人生のコントロールができる感覚」の重要性を語っていた。
だが、そう易々と人生をコントロールすることは不可能に近い。
フォックス教授は、「感情のコントロール」の大切さも語っていた。
要はコントロールができる結果よりコントロールしようとする意志の過程こそが必要なのではないだろうか。
それこそが他者に振り回される危険の大きい平野の分人主義より、自己がコントロールできる余地が多い中原の「浮遊しているものの繋ぎ目」との違いなのではないか?
古井由吉は、『すばる』(2008年2月号 集英社)の「講演 書く 生きる」において
人間は自分のことがわからないものなのです
(P149)
と喝破する。
確かにその通りだ。
若者はそれぞれ一人一人が心の中に傲慢なキングダムを持っている
(P38)
と語っている。
自己同一性は多数ある。
王も神も複数ある。
それを十把一絡げに、合一しようとすると問題が多く生じる。
平野の分人主義は、他者の間の私の複数性を肯定せよと主張する。
繰り返しになるが、それは他者に主導権を握られ、勝手に自己同一性を決定されてしまう怖れを感じざるを得ない。
自分にも判らないことが、他人に判るはずがない。
アレント、並びに中原の「私」の多数性は、決して勝手に自己同一性を押しつけない。
なにものでもない自己の無をコントロールしようとするのだ。
もちろん、無であるためには、動き回らなければならない。
(了)