崩れる通信

「崩れる本棚」創作コンテンツ用のブログです。

崩れる通信 No.27

崩れる通信です。

今回で、27回目の更新となります。

よろしくお願いします。

1.小五郎『白い教室 ~落第生のはらわた~』第7回

2.そにっくなーす『デロンギナースの死(ぬほどおいしい珈琲の話)』

3.Pさん『小品』

Pさんの小説の断片は、日記の文章の使いまわしで新作ではありません。

あしからず。

いい夜をお過ごしください。

それでは、また次回。パフォー。

白い教室 ~落第生のはらわた~

第7回

小五郎

2月は、1998年が舞台の小説を執筆していた運びで、アマゾンにおいて世紀末界隈の本やCDを買い揃えていた。

また、中国の友人が帰国する正月に彼と彼の奥さんに会おうと去年から約束していたのだけども、あちらとしての正月は2月8日の春節、つまり旧正月のことだったというすれ違いがあり、大いに異文化コミュニケーションを楽しめはしたが、何時ぞやにも吐露した通り、どうもわたくしの気分が優れずに、およそ1年振りの2月7日の再会を取りやめ、兄に身重の妻を連れた彼の実家の岐阜まで1人で行ってもらった。

さて、どうでもいい近況報告は、このくらいにして、早速本題に入ろう。

今回取り上げる偉人のためになる金言は、ドイツ編2回目にして早くもドイツ出身を離れ、現在のチェコ、当時のボヘミア王国に生まれた、ドイツ語圏ユダヤ人作家である、みなさんお馴染みのフランツ・カフカ(1883ー1924)の言葉だ。

前回は政治哲学者のハンナ・アレントというカフカユダヤ系なる共通点はありはするが、底抜けのお馬鹿さん加減が甚だしい奇妙な小説を没する40才まで書き続けた現代マイナー作家の元祖的存在なカフカと比べるとやはりお堅すぎた。

して、その珠玉の言葉とは、彼のギムナジウム時代の同級生だったオスカー・ポラック宛ての書簡(プラハ、一九〇二年八月二十四日(日)またはそれ以前)の

夢中になって書くな、書きながら身体を揺らすな

(『カフカ』川島隆訳・集英社文庫ヘリテージシリーズ P667)

である。

わたくしは、これを読んで、プロ野球選手がよく言う、「気持ちは熱く、頭は冷静に」(うろ覚え)という言葉をすぐに想起した。

メジャーリーグのロゴを見ても頭の背景は冷静の青で、バットの背景は熱い赤だった。

さらに脱線の連想を許すなら、町田康主演のピンク映画『赤い犯行 夢の後始末』(1997/サトウトシキ監督)における、「情熱はカメラの後ろにある」(うろ覚え)という台詞だ。

ところで、カフカが件の手紙を書いたのは19才前後だ。

19才は一般的にはまだまだ未熟だが、カフカにおいては違う。

恐縮ながら、私事を申せば、19才のわたくしは、50枚の小説を書き、いまはなき中央公論新人賞に応募して、あえなく落選している。

さて、天才カフカに戻ると、若死にの作家はおしなべ早熟なのかもしれないが、なにせ21才で快作『ある戦いの記録』をものしているぐらいなのだから、19才でもその片鱗は伺えてあたりまえだろう。

これは元エルレガーデンの細美武士も愛読していたそうだ。

ゆえに19才のカフカ少年が到達した創作態度である言葉は全国の芸術家見習いが抱える悩みの正鵠を射るものといってよさそうだ。

そして、毎回の手法をここでも踏襲するのなら、どんどん逸脱させていく用意はしてある。まずは、2016年2月21日付の『朝日新聞 グローブ』のこんな記事から。

”過去にしがみついたり、未来を憂えて現在をおろそかにしていないか。幸せとは、今に集中して最善を尽くす時に得られるもの”

(「ベストセラーズ・イン・ソウル」ソウルの書店から 『法輪和尚の幸せ』ポムリュン著・戸田郁子訳)

これをカフカの金言と対比させるとどうだろう。

先回までなら脱線を助長させる引用をしっぱなしで、文脈についてほとんどといっていいほど考察してこなかった面が少なからず、いや多々あったので、今回は、ちょっとばかり掘り下げて演繹してみたい。

つまりは、カフカにとって「書く」とはなにか、ということ。

常識としては「書く」は現在の行為だ。

しかしカフカは「夢中になって書くな」と戒める。

つまり、「現在」に夢中になるな、といっている。

「現在」を前掲のポムリュン和尚の言葉通りに解釈するなら、カフカの「現在」は「今に集中して最善を尽くす」な、といっているわけだ。

ではいったいカフカはどう「書く」のか?

ジル・ドゥルーズは、時間において、過去と未来だけがあり、現在は存在しない、とどこかで述べていたと思う。

カフカの「現在=書く」とはそんなドゥルーズ的時間なのではないか。

カフカの言葉の後述にある「身体を揺らすな」も今現在の身体性を捨てろ、と言っているのだ。

「今」を捨て、過去と未来に繋がり、「書く」。

それはイデア的客観視とは、また違った、純粋経験の世界だ。  

では、最後の脱線引用をして終わろう。

”物ヲ離レテ心ナク心ヲ離レテ物ナシ”

(『朝日新聞朝刊』2016年2月26日付)

夏目漱石『門』(第九十九回)解説より

小五郎

今年13年目のメルキド出版の眼鏡の弟

twitter:@ngz55

blog:小五郎の日記

デロンギナースの死

(ぬほどおいしい珈琲の話)

そにっくなーす

その女はいつも口を開くと珈琲くさい話ばかりするので、デロンギナースと呼ばれていた。

その実、重度のカフェイン中毒であり、いつも自分の手製ドリップセットととっておきの豆を持ち歩いていた。職場でももちろん珈琲をガブガブ飲む。仕事が早いので、ひとつ仕事を済ませると一本煙草を吸う喫煙者みたいに、ひとつ仕事を済ませると一杯のエスプレッソを啜った。お昼休みになると、職場の狭いキッチンにドリップセットをどっさり置いて、患者に薬を飲ませる時に使う小さなコップに挽きたての珈琲をそそぎ、出勤しているスタッフに振舞っていた。

デロンギナースは自分が珈琲を好きなだけでなく人にも気前よく振舞う人だったので、珈琲くさいということについてはまあとやかく言われていたものの、結構みんなから好かれていた。

患者たちからもデロンギナースと呼ばれており、医師や薬剤師、臨床心理士、栄養士、病棟チャプレン、デイケアスタッフ、OTスタッフ、リハビリ師たちも、珈琲が飲みたくなると彼女のところへ行った。とんでもなくイライラしたり、ちょっと時間があいてブレイクしたりしたいとき、アロマオイルを選ぶみたいにムードに合った珈琲を淹れてくれるデロンギナースは重宝されていた。ただ珈琲くさいとしょっちゅうからかわれていたが。

デロンギナースは食事も好きだった。栄養について高い関心を持っており、病状で食事をとることを拒否する患者への対応はもっとも優れているとされた。他のスタッフがどんなに熱心に介助しても食べなかった人が、デロンギナースがちょちょっと会話してスプーンを口に運ぶだけで、あっという間に全量摂取するなんてこともままあった。

デロンギナースはマーゲンが好きだった。マーゲンというのは胃につながるチューブのことで、口から食事が取れない人は胃に直接チューブを入れることで栄養摂取してもらうのだ。ピンク色やオレンジ色の栄養点滴も好きだった。点滴を混合する台の上をいつもアルコールで綺麗に保ち、栄養点滴をサクサク混合し、色合いを見てうっとりしていた。(栄養点滴は栄養たっぷりのあまりバイキンが集まりやすいので、調合したらすぐに滴下を始めなければならない。置いておくとバイキンが入り繁殖しやすくなる。だからうっとりとはいえそんなにゆっくりは見ていられない)

デロンギナースが点滴の更新に入ると、患者はうんざりした顔でナースの顔と手元を順番に見た。

点滴なんかやりたくない。好きで生き延びてるんじゃない。食べたくもないって言ってんだからほっといてくれればいいじゃない。針の刺さってるとこは違和感があってむずむずして、普通に手を動かすのがこわいし、3日にいっぺんは針をブリブリ抜かれて刺し直されるからあちこちあざだらけだ。漏れたらぶくぶくだし、動きたくないのにすごい頻度で尿意が襲う。好きで生き延びてるんじゃない。好きで食べないわけでもない。あちこちで、私が食べる姿を笑う人がいる。監視している人がいる。

ーおまえが食べはじめたりなんかしたら、じーっと見ててやるぞ。おとこまさりながっつき方したら笑ってやる。

患者の頭の中では食事を監視し何をしても責めてかかってくる奇妙な声が響いていた。それは本物の、耳を震わせ聞こえてくる音声と区別がつかないほど良質な生音で響くので怖くてどうしてもこの声に逆らえなかった。食べられなくなった患者は28kgしかなかった。しかも入院してから一度も言葉を発していなかった。

食べたら地獄、食べなくても地獄、点滴は大嫌い。でも言葉でそれを発することがなぜかできない。デロンギナースが退室したのち、患者は思い切った行動に出た。

寝たきりだったり重症だったりする人に優先的に目が届くよう、重症患者の部屋はナースステーションのすぐ近くに位置する。デロンギナースが一仕事終え、コーヒーとしけこむかぁ、とコーヒーかんかん(犬のご馳走缶詰のこと、かんかんごはんって言いません?かんかんごはんだよって言うと犬たちは目の色を変えて尻尾を振り回しますよね)に手を伸ばすと、かんかんを開けてもいないのに、コーヒーの匂いがただよっていることに気づいた。このキツめの芳醇な香り、キリマンジャロAAか…?コーヒーメーカーなんてない重症部屋からにおってくる。重症患者たちはコーヒーを楽しむ余裕なんかないはず。デロンギナースは不審に思った。かんかんを放置して、病室にむかった。

キリマンジャロAAかと思った香りは血液のにおいだった。血液は大量になると鉄分の香りを超えコーヒーのような芳醇な香りを漂わせる。さきほどの食べない患者の部屋のベッドと床は血液の海だった。

青ざめて、しかし幾分か勝ち誇ったような顔をして患者はこちらを見た。患者が点滴を自分で抜いたのだ。しかも腕には点滴ルートの針と短いチューブが少し残っており、血管に直接繋がっているチューブからどぼどぼと血液が逆流してきていた。

デロンギナースはディスポーザブル手袋をはめて患者の腕から針を抜き、アルコール綿で刺入部を塞いでテープで止めた。血液汚染したチューブと器具、シーツを袋に詰め、血液の床を拭く。終始沈黙していた。自傷や自抜の行為を発見した場合、医療者は驚いたり怒ったり悲しんだりしているところを見せてはならない。デロンギナースは片付けを終え手洗いを済ませてから、また抜かれるかもしれない点滴ルートを無言で挿し入れた。患者も無言だった。ルートがなんとか入り、デロンギナースは声をかけた。

『あなたの生命に危険があり』

ルート固定用テープを貼る手は止めない。

『あなたが入院している以上は』

摘下は万全で、少し患者の目につかない場所を選んでルートを固定する。

『私たちはあなたが嫌がったとしても、生きるための手助けをやめられません』

さっと布団を直して、デロンギナースは退室した。

ナースステーションに戻り、手洗いを済ませる。コーヒーを飲む気持ちになんとなくなれなかった。血液のにおいとコーヒーのにおいが似ていると思ったのは初めてだった。コーヒーが好きだから、コーヒーを嗅ぎつけて、たまたま自己抜去を発見できたのだし、もし発見が遅れて出血量がもっと甚大になったら、ショック死の可能性だってある。コーヒーが好きであること、血液を嗅ぎつけられたことに、なんにも心を暗くする必要はないのだが、キリマンジャロAAかな?などと言っていた自分が恥ずかしく思った。

翌日も、自己抜去患者は食事を摂れず点滴の指示が続いていた。デロンギナースは点滴の滴下を合わせにその患者の部屋にそっと入った。患者はねむっていた。幻聴に悩まされずに済む唯一の時間である睡眠のひとときを、デロンギナースは邪魔したくなかった。滴下は患者の体動で少しだけずれていて、遅れていたためクレンメを弄って調整する。

滴下を合わせるとき、いつもの癖で葉加瀬太郎さながらに指をふるってカウントした。人差し指をたて、時計の秒針とボトルを見比べながら、4拍子をとる。のりにのってきてしまい、囁き声の鼻歌がつい出る。情熱大陸。滴下がきっちり整ったところでふとわれにかえると、患者がこちらを不思議そうに見ている。

情熱大陸……?』

患者ははじめてことばを発した。デロンギナースは思わず顔をほころばせた。

『そうだよ』

患者にとって、何もしなくても外へ外へと流れ出してしまう思考と自我を守るために閉じこもっていた殻が割れた瞬間だった。幻聴はまだ怖い言葉で語りかけてくるが、看護師が情熱大陸を歌いながら点滴をセットするという想定外の光景に新鮮な驚きが勝ったのかもしれない。一瞬、患者は自分の世界を開いた。

『はじめてしゃべったね』

デロンギナースは笑った。息がめちゃくちゃコーヒーくさい。歯もコーヒーで汚い。しかし患者はその笑顔を見て、デロンギナースの白衣の中の人間ぽさを感じた。

『コーヒーくさいよ』

患者は思ったままを発し、デロンギナースはまだ笑いながら『うるせえ。コーヒーはいいぞ。コーヒー飲め』と言った。

   おわり

酔っ払いバタフライ

そにっくなーす率いる「酔っ払いバタフライ」2014年5月の文学フリマ東京から活動開始。看護師のほかに、バンドマンやら料理のうまいハリネズミやら乙女男子やらセンスいいたぬきやら天才デザイナーやらが属している。本は下北沢クラリスブックスにて委託販売中。

twitter:@sweetsonicNs

小品

Pさん

アイスコーヒーのグラスの中の大きめの氷が全く溶けきる頃にはすべての話が終わった。四角く透明で、中に気泡を作らないために常に空気を通していたのであろう窪みが、六面体の一つの面に開いている形の氷だ。ちょうどサイコロの「1」の目と同じ具合になっている。他の面に「6」や「8」が刻まれているという意味ではない。何度もストローでクルクル回されて、そのことは溶ける速度に有意な影響を及ぼさなかったのだからクルクル回す手が動かなかったと仮定しても時間は同じだ。それより室温に依存するのであろう。相手の表情は思いのほか硬かった。アイスコーヒーのグラスの中の氷は溶けないように努力するほどの知恵や何かに抵抗する気概というものを持ち合わせていなかった、ので、確かに予測されるとおりに溶けていったものと思っていただければ必要十分であろう。相手が書類をバサバサしたときにグラスの外側の水滴が書類に付いてしまったことに気づいた人間はそこにはいなかった。

学生がテーブルの隙間を埋めるように参考書とプリントとノートと電子書籍と電子辞書とスマートフォンスマートフォンの充電器を置いているのが上空からありありと見えた。緑色のペンと赤い下敷きで暗記するタイプのやり方を全部において実行していて、参考書のほぼすべてのページに緑色のマーキングがしてあって、現在覚えようとしているページに赤い下敷きが挟んである。電子書籍には「NARUTO」のクライマックスが表示されていてそれを今、めくろうとして失敗しているのが上空から覗かれる。手の汗で誤認識したのだ。NARUTOは大変なことになっている。ニュースアプリのアラートがスマートフォンを揺らして隣のテーブルの人が何かの通知が来たと勘違いして素早く自分のフォンの電源ボタンを押す。外で植え込みが風に揺れる。膝くらいの高さの植え込みなので小刻みに揺れる。反対側のテーブルを拭く店員の目がうつろだ、上空遙か高い位置から何とかそれが見える。手鏡を利用すれば、実際に目視できることだろう。「NARUTO」が最大限の盛り上がりのコマを抜けた。脳内物質が張り裂けんばかりに放出されているのが見える。

犬の目線になるには犬の高さに目を持ってくるだけでは足りない。犬にとっては地面は匂いの地図として膨大な情報を持っている。目に映る映像の情報はその補助くらいの役割しかしていない。犬の高さに目を持ってくる人間はなので卑屈な人間以上の何者でもない。犬は想像の中で数メートルの人間として直立して匂いの地図を総覧している。駆け回る。誰かの足として走る、そのスピードは卑屈や隷属とはほど遠いクリアな実感をこちらに与えるだろう。伸縮自在のテグスをゆるめ、ロックして、引っ張ることなど自分という誰かの足として走り回る犬に対して、なので、何の効力も持たない。犬に見下ろされている。膝を曲げて、手を紳士的に折り曲げ、屈むことでようやく犬との会話が始まるというのに、我々は見上げることすらしないだろう。

ソ氏がなぜか黒いものを好むことに関する報告。

ソ氏が最新版の電化製品を買う瞬間をカメラに収めたのが該写真なのだが、またしても「シルバー」「赤」「グリーン」「黒」の中で「黒」を選んでいることが、確認してもらえるだろう。向かいの店員がことさらそれを推したという可能性は否定的だ、その証拠に、該店員はソ氏に持たされた黒い小型の電化製品を持っているのとは反対の手で、どうもピンクっぽい「赤」の電化製品を持っている。つまり、一瞬前にはそっちを持っていたところで、ソ氏に促されて「黒」を持たされたということになる。これが購入の直前を捉えた写真であることは、ソ氏が勘違いをしてその場で財布を出し、紙幣をそこから抜き出そうとしているところから察せられる。全体としては、天井から吊された、売場電化製品の種別を告げる看板や、「お悩みのあなたへ」という発泡スチロールで作られた立て看板、値段に何重にも線が引いてある眩まし値札などが隙間という隙間を埋め尽くしている、情報を抽出しづらい写真であるのだが、我々はそこからソ氏を救い出すかのように見つけだし、該情報として再現して見せたというわけだ。

証拠はこれだけではない。次の写真から、ソ氏が決定的に黒いものをなぜか選んでしまうという確信が、見る者に自然とわき上がってくる力の源泉とでもいったものを確認してもらえることと思う。

崩れる通信 No.26

皆さん、本当に申し訳ありません。また掲載が遅れてしまいました。

私事によるところが大きいので、私事を完全になくし、公事としてこれからは生きていくことにします。

公事と呼んでください。

一作目 憂野 ホニャホニャプーの囲い(第3回)

二作目 yoshiharu takui 音楽とラジオと音 童話について(第4回)

三作目 そにっくなーす 精神科ナースが命をねらわれた話 妄想の回 その1(第7回)

四作目 ウサギノヴィッチ ウサギノヴィッチの「長ゼリ」(第1回)

Pさんの諸連載は、回復したら書こうと思います。

それでは。ピロピロリン。

休載のお知らせ:クロフネⅢ世さんの連載、「路上観察のすすめ」は、休載とさせていただきますこと、御了承くださいませ。

ホニャホニャプーの囲い

第3回

憂野

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深夜、近所のTSUTAYAで法衣?おれには馴染みがないからぱっとしないが、僧が着てるあれ、を大胆に改造したわけわからん服着てるヤバそうなやつがいて、目を合わせないようにしとこ、と思ってたら向こうから近づいてきて、おれの名前知ってるから誰かと思ったら中学の同級生だった。

「ひさしぶりだな」

「おう」

「お前いまなにやってんの?」

「お前こそこんな時間にそんな服着てなにやってんだよ」

「服は仕事着っつーか……」おれは思わず苦笑した。

「マジでお前いまなにやってんの?すげえ気になってきた」

「詳しくは言えねんだよ、察しろ」

「ふーん」深入りはしない。

「お前歩きか?」

「そうだけど」

「俺車だから家まで送るぜ」

「あー、じゃあ頼むわ」

こっから記憶がない。気が付いた時、おれは知らない場所にいた。ベンチに座っていたが、いつ座ったかもわからない。暗いからまだ夜中だろう。目の前にはタイヤが並んでいる。軽くパニック。笑っちゃう。ふふふっ、ここ、どこよ。

デッデンデレデレレン♪デッデンデレデレレン♪デッデンデレデレレン♪デッデンデレ……

「うおっ」

静かだったところにいきなり大音量で、かなりびびる。声まで出た。でもすぐに音源はわかって、それはポケットに入ってるおれのスマホだった。不在着信。おれは電話に出た。

「目ェ覚めた?(笑)」

「おー覚めた覚めた、ばっちし覚めた。で、ここどこよ?」

「県内の公園だけど」

「いや、県内の公園ってどこだよ。ふざけてんのか?」

「ふざけちゃいないぜ。俺はそこでお前にやってもらいことが」ブチッ。知るか。おれは帰る。さっそくさっきの番号を着信拒否設定。時刻は午前二時十分。スマホのバッテリー残量五十六パーセント。県内っつってたし、まぁ、帰れるだろ。なんて甘い考えで、圏外。県内なのに、圏外。インターネット繋がりません。おいおい、ここどこだよ。

デッデンデレデレレン♪デッデンデレデレレン♪

音量を下げておいたので今度はびびらないで済んだ。とりあえず出てみる。

「いきなり切ってんじゃねえよ、殺すぞ」

「またお前かよ、番号いくつ持ってんだよ。つーかどうやってかけてきてんの?圏外なんだけど」

「法力だよ法力、法力で電波送ってんの」

「テレパシーとか使えねぇのかよ、地味に現実的な法力だなおい」

「そんなもんだろ」

「そんなもんか」ゴミクズが。

「で、おれをどうしようっての?」

「目の前にタイヤあるだろ?朝まで見張っててほしいんだ」

「拒否権とか」

「あると思うの?」

「だよね」ゴミクズが。

「囲むことに意味があったんだ。でも囲うものがなくなった囲いはもはや囲いではなくなる。囲われていたものが理由なく消えるはずもなく、そいつは穴から逃げ出した。俺は囲いを元の通り囲いに戻さなければいけない。タイヤは走るためのものだ。ホイールから外されて止まっていてもそれは変わらない。人間目線では止まって見えても、タイヤで囲われた空間は動いている。つまり護送車。今はトラブルにつき緊急停車中だけどな。俺はすでに目に見えない数人の囚人をぶちこんだ。ただ、囲いの修繕が間に合ってねぇ。だから穴あきっぱなし。囚人は見張ってねえと出てっちまう。そのための、お前だ。

朝になったら迎え行くから。ちょっかいだされても無視しろよ?じゃあな」ブチッ。ツー、ツー、ツー。ああもうほんといい加減にしろよなちくしょう。

律義に見張る。真っ暗の中見張る。寒ィ。くっそ。あんなクソと関わるんじゃなかった。TSUTAYAでの自分より中学での自分をぶち殺してやりたい。つーか「ちょっかい」ってなんだよ。なんて考えてたら、「きた」。

タイヤの穴から、ゆっくりとはえてくる。暗くてぼんやりとシルエットがわかる程度にしか見えないが、すべてのタイヤからゆっくり、時間をかけて、はえてくる。おれの思考は数秒停止。冷や汗。体が震えてきた。動けない。タイヤの穴を凝視。動けない。

数十分経つと、やっとなにがはえてきたのかわかってきた。

老人だ。

しわくちゃのからだをした全裸の老人が、白目をむいてはえてくる。大量に。髪はどの老人もボサボサで、顔に表情はない。真に無表情。性別はばらばらで、爺さんが十八人、婆さんが十二人。

手前から、爺爺婆爺婆婆爺爺爺婆爺婆爺婆婆爺爺爺爺婆爺爺爺婆婆婆爺爺婆爺。不気味というか、おぞましいというか、形容しがたい気持ち悪さ。婆の垂れ下がった乳房がはえてくる。爺のたるんだ腹がはえてくる。やがて性機能を完全に失っただらしない性器も完全に露出する。運動機能の衰えた大腿、脹脛、骨ばっているのに皮が覆いかぶさっている踝、汚い黄土色の爪が割れたつま先。長い時間をかけて全身が公開。マッドサイエンティストの研究施設みたいに、タイヤに入った老人がずらーっと並ぶ光景は圧巻。

長い時間フリーズしてたおれの意識が肉体に帰ってくる。動いていなかったから全身の節々が痛む。筋肉も攣りそう。取り敢えずのびをしよう。立ち上がる。

「あ「ヴぁう「ぎじゅ「ん「か「ぐち「ひひあ「むにあ「べべぺ「っつっあ「ててて「ふひふぁ「ふぁふぁ「ぉlうぇぁは「っぺ「ごへ「むふ「んじゃしゃ「くきこ「といいう「し「ぶぶ「であ「でだ「きうい「ぉぺ「ふほ「ち「だ「がぎぉん」あ」あ」じゅ」ん」ああ」うぇる」じゅふ」ぶぐあ」ぷぱ」ぐえ」づう」ぁかだ」だ」で」づゆ」ひゅ」ちゅじょ」じゃ」せ」おか」だだだだ」じゅにひ」むみ」でふ」ふちゅ」かで」じゅぅぃ」ぉじゅふ」ぺろっこ」

老人たちは三十人で一斉に、人間の声ではない、例えるなら音質の限りなく悪いスピーカーから発せられる音声のような、ノイズで、お経?呪詛?のようなものを唱え始めた。おれが立ち上がった瞬間。当然びびる。うさぎが射精時に発する声が出たぜ。熱湯かけられたときも出すらしいけど。知らんけど。よく聞くと、こいつらは全員同時に別の経を唱えてるから意味不明に聞こえるんだってわかってくる。ひとりひとりに注意を向けて聴くと、なんてこったい、こいつらはおれの人生の罪状を読みあげてる。ふざけやがって。殺してやる。あ、もう死んでんのかって笑っちまう。

うんしょっと。

おれはベンチを持ち上げていちばん近くにいた爺の顔面にぶち込む。爺の頭はふっとぶ。呪詛は首の穴から聞こえる。

「人間も中身を囲ってる囲いでしかなく、ほんとにほんとなのは魂のとこなんだ!こいつらはそこが腐っちまってるから、ガスが出てくるんだぜ」

おれは狂ったように老人をぶちのめしていく。身体に呪詛がまとわりつく。気分悪くてゲロを吐く。顔は引き攣った笑顔。老人をぶち壊してる。息切れ。

デッデンデレデレレン♪デッデンデレデレレン♪

ぜえぜえしながら電話に出る。

「すまねぇ取り逃がした!そっち行くぞ気をつけろ!」ブツッ。

はぁ?

意味わかんね。

死ねば?

とか脳に浮かんだけど足音が。どんどん近付いてくる。豆粒がみえる。でかくなる。足音も、影も。スマイリーな仮面をつけた髪の長い女。おそろしく速い。

「もっもおもももぉおおおおももももおももももももももおももぉおおおおおおおおおお!!!!!!!」おれはまともに突進を食らい、無様に地面にぶっ倒れた。

「もぉおおおおおおもももおおぉおおお!!!!!だからぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!いったああああああでしょおおおおおおおぉぉぉおおおおおお!!もおおおぉおお!!!」馬乗りになった女に何発も殴られる。正面に腕をクロスした楯をつくるが、そんなものは無意味なくらい一発が重い。ベギ、右腕が折れる。ボグ、左腕が折れる。ドグ、肋骨がへし折られていく。顔面が赤くなっていく。口の中は鉄の味しかしなくなる。もうだめだ、死ぬ。

女は殴るのをやめる。助かったか?というのは大きな勘違いで、すぐに頭を片手で地面に抑えつけられる。がああああああああ、われるっ。女はいつの間にか手に持っていたカッターナイフの刃をおれの小鼻の下にあてがう。

「やめてくれええええええええ」

じゅぶ、じゅぶ、じゅぶじゅぶじゅぶ、じゅぶじゅぶ。女は刃を左右にスライドさせて、おれの鼻をすこしづつ切り取る。じゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶ。鼻が熱い。鼻腔と外気が繋がって妙に涼しく、ひゅーひゅー音が鳴る。

鼻という囲いから解き放たれたおれがどんどん外に出ていく。

「あははははははは」すきなだけわらいなさい。きみにはそのけんりがあるんだから。

夢から覚めたおれは実はもう死んでいて、車で意識を失ったときからか女に鼻を切り取られたときか定かじゃないけどどっちかのときにはもう死んでいて、自縛霊的存在として公園のベンチに白目向いて座ってる。四六時中。昼も夜も。囲いは、まだ修繕されない。今日、新たな監視者が派遣されてきた。

憂野

たぶん人間。

音楽とラジオと音

第4回 童謡について

yoshiharu takui

先日見ていたTwitterに、こんな詩が載っていた。

ねこちゃんぴゅんぴゅん

とりちゃんぴっこぴっこ

うささんぴょんぴょん

まりもちゃんぽんぽん

いぬちゃんぼりぼり

ごりちゃんうっほうっほ

ぞうちゃんひねひね

たのしいな

そにっくなーす(@sweetsonicNs)の短い詩。パッと目に入ったとき、まだ喋れない小さな子へ、親が歌うあそび歌のようだと思った。

この詩のように、やさしい言葉、ゆたかな擬態語で書かれた詩や歌をたくさん見聞きするのが、生まれてから3歳、4歳ごろまでの数年間だ。

僕は688グラムの未熟児で生まれたおかげで、発育がとても遅い子供で、3歳になってもしばらくは、片言でしか喋れなかった。

でも、ほとんど喋らなかった2歳ごろでも、耳から入る音楽のことはよく覚えている。その頃から、5歳、6歳ごろまで、親がビデオテープに録っておいた

『第6回 全国童謡歌唱コンクール』の映像は、飽きるほどよく見ていた。

その中で、いちばん印象深いのは、大学生か20代なかばの女性が歌っていた「かもつれっしゃのうた」。

「わー!おかあさんといっしょのあゆみおねえさん(茂森あゆみ)じゃないひとがうたってる!」

当時の気持ちを文字にすると、こんな感じだったかもしれない。表情豊かに楽しく歌う姿を、ビデオで何度も見た。

「かもつれっしゃのうた」が歌われた第6回大会では、男女合わせて4人の大人が歌う「いぬのおまわりさん」もあった。

その中の男性1人が、歌詞に出てくる動物の鳴きまねを演じていたり、最後のところはハモっていたりして、とても楽しい雰囲気だったことをよく覚えている。

この「いぬのおまわりさん」を歌った4人は、第6回大会の金賞受賞者だった。

NHK放送博物館の図書ライブラリーに、1967年から68年にかけて発行された『NHKこどものうた楽譜集』がある。

当時のテレビ番組『うたのえほん』『うたいっぱい』『らっぽんぽん』で歌われた曲が収められていて、そのなかに「かもつれっしゃのうた」の歌詞と楽譜が載っていた。

見た瞬間から、メロディーと『全国童謡歌唱コンクール』の映像や音がすぐに浮かんできて、とても懐かしい気持ちにとらわれた。

楽譜集には「ピコットさん」という曲もある。幼い頃に母親が歌ってくれたのをよく覚えているが、その母親が小学校に上がる前(1964年ごろ)の『うたのえほん』のヒット曲だったこと、

作曲した湯浅譲二が、日本の初期の電子音楽や、大河ドラマの音楽で著名な作曲家ということを知るのは、つい最近のことだ。

童謡といえば、NHKの『ハッチポッチステーション』で、童謡と洋楽がごちゃ混ぜになっているコーナーは、大好きだった。

ローリング・スッテンコロリン「うさぎとかめ」(ボーカルは「ミック・ジャガイモ」)

マイケル・ハクション「やぎさんゆうびん

KISSA「おなかのへるうた」

キリツ・レイ・チャールズ「手をたたきましょう」

三大テノール:パパグッチ・フラミンゴ・カレーライス「ぞうさん」

こんな調子だ。名前だけで、もうおかしい。

中学から高校にかけて、ローリング・ストーンズマイケル・ジャクソン、KISSやレイ・チャールズの曲を知った時、「ハッチポッチステーションでやってた歌だ」と気づくことがとても多かったし、

「うみ」や「森のくまさん」を、ビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」「抱きしめたい」と繋げたメドレー、ABBAの「ダンシング・クイーン」が「単身赴任」になっていたのも忘れられない。

童謡に話を戻すと、1960年代のNHKから生まれた童謡は、幼児のための歌でも、メロディーや曲の進行は、大人が聴くポピュラー音楽と変わらない、というのが少なくない。

トンネルをゴーゴーと走る地下鉄を、ゴーゴーダンスと引っかけて、うたのおねえさんがビートに乗って歌う「ちかてつ」は、その白眉だと思う。

今になって、当時のほかの音楽と同じように掘り下げてみたくなった。

精神科ナースが命をねらわれた話

第7回 妄想の回 その1

そにっくなーす

大きなテーマを取り上げてしまった。妄想はあらゆる精神病やあらゆる精神の現象に起こるおもしろいものごとなので、語り尽くせない気もするが、せめて数回編成でお送りしようと思う。

妄想と生きづらさについて、「妄想とはなにか」について未経験者にもわかるよう解説し、いろいろ考えていこう。

てはじめに、妄想の定義から。

「妄想とは、第三者からみて受け入れがたく、現実とはかけ離れた、訂正不能な確信のことである。身体や精神に上があることを想定する場合が多く、念慮、疑惑、早合点、だまし絵を見たときに生じる錯覚、空想(ファンタジー)、迷信などは含まない」(「心理学連邦」より)。

精神医学では妄想を、思考内容の異常から生じる誤った考えとし、「妄想とは根拠が希薄であるのに確信が異常に強固であり、経験、検証、説得によって訂正不能であり、内容が非現実的であるもの」(「精神看護学」宮本正巳)と定義している。

妄想の種別を、ふたたび宮本先生の「精神看護学」から引いていく。

妄想はその本質によって二つに分けられる。

(1)妄想様観念(二次妄想)異常体験から生じる妄想で了解可能な妄想。抑うつ気分から悲観的妄想がみられたり、「殺す」という幻聴から迫害妄想が起こる場合をさす。

(2)真正妄想(一次妄想)「どうして発生するのか」「なぜ起こったのか」が心理学的に了解できない妄想のこと。あんな気分だから、あんな幻聴があるかというように了解できない場合である。真正妄想はさらに次の3つになる。

①妄想気分…「なんとなく変わった、何か起こった、なんとなく不気味だ、なんとなく意味がありそうだ」と何とも形容できない気分が起こる。患者にとっては何かが起きていると体験されるが、その何かが明確にわからない。ただ、異様なもの、不気味な雰囲気が起きていると感じる。

②妄想着想…突然にある誤った考えがひらめき、それが確信される。たとえば、「わたしは神である」と突然に思いつくことである。統合失調症の診断学上の重要性では妄想知覚に比べ低い。たとえば、隣家の少女から愛されていると着想することは妄想着想であるが、現実にありえないことではない。現実に一致していることもあり、統合失調症に特有とはいえないのである

③妄想知覚…偶然に知覚された事実に特別に誤った意味が加わり、それが確信される。たとえば、「赤い服を着た女性を見て、町中にエイズが蔓延していることがわかった」と確信する体験。シュナイダーが統合失調症に特有な第一級症状として取り上げている。

 

妄想は内容によって分類することができ、①他人が自分に危害を加えると考える被害妄想群と②自我が縮小したと考える卑小妄想群、③自分が拡大したと考える誇大妄想群がある。

①被害妄想群…毒物が入れられた(被毒妄想)、妻が浮気をしている(嫉妬妄想)、周囲の人が自分を嘲笑している(関係妄想)誰かが自分を尾けている(追跡妄想)、自分をじっと見ている(注察妄想)、狐がついている(憑依妄想)などがある。

②卑小妄想群…胃が腐る、不治の病で治らない(心気妄想)、金がなくなる(貧困妄想)、嘘をついた、失策をしてみんなに迷惑をかけた(罪業妄想)、自分の身体がなくなる、何もかもなくなる(虚無妄想)などがある。

③誇大妄想群…自分は天皇の末裔である(血統妄想)、ある機械を発明した(発明妄想)など。

引用終わり。

妄想は、自分の知覚認知と実際の現実との間にフィルターをつくる。わりと頑固なフィルターである。たとえば、自分は相手から嫌われていると思いながら人と接するとする。(この確信が妄想かといわれると境界だとしか言えない。これが発展して、たいしてかかわったことのない相手などに対して「こいつは私の敵だ」とか「こいつは私の悪口を吹聴している」とか「こいつが私の食べ物に毒を盛った」とかいう確信になり修正が困難なぐらい本人の中で具体化していくと、病的な「妄想」となる。)たとえ相手がいつも通りのなんとも思っていない態度で接してきても、自分自身は自分自身の思いこみによって「この相手は自分を嫌っているのだ」と決めつけるので、その裏付けを無意識にもとめてしまう。その結果、相手がなにをしても、なにをいっても、なんだか冷たい、なんだかつんけんしている、自分を嫌っているからこうするんだ、と思ってしまう。そうして、妄想フィルターはより強固なものになり、患者本人を、孤立させ不安な気持ちにさせるのだ。

ものごとを、自分の頭で考えるからには自分の知覚認知を無視して目のまえの現実を受け止めることは困難だろうが、自分の認知がそもそも歪んでいると見え方がまるっと違ってしまう。自分の気持ちや認知をふくまない客観的な情報だけを冷静にくみ取ることができたらこんなふうにはならないんだけれど、妄想にとらわれているときはそれがすごく難しい。

臨床で3年間ぽっちだが色んな人の妄想をみていて、妄想は「うかぶ」のと「とらわれる」のは別なんだなという発見があった。ただ「うかぶ」だけの場合は、他者の声かけや自分自身の冷静な思い直しによって、頭の中でそれを修正することが可能な状態。浮かんだ妄想が頭の中をぐるぐるうずまいて修正できず、自分が変な考えをしているということに気付けなくなって混乱をきたす状態が「とらわれる」である。「とらわれる」のほうが重症である。薬でのコントロールや周囲が支持的にかかわることで、「うかぶ」けど「やっぱりちがうよな」と思いなおすまでにまた回復していく。

ある種の妄想は願望から、またある種の妄想は不安から生じる。願望も不安も同じようなものとすれば、妄想の源泉がより深く見えてくるであろう。ありもしないものを脳味噌がつくりあげ、そのありもしないものにふりまわされるのだ。これは病気と診断された人に生じるものとされているが、「嫌われていると思いながら接する」というイメージをうかべると、疾患をもっていない人にとっても、実感としてわかりやすくなるのではないだろうか。

次号につづく。

酔っ払いバタフライ

そにっくなーす率いる「酔っ払いバタフライ」2014年5月の文学フリマ東京から活動開始。看護師のほかに、バンドマンやら料理のうまいハリネズミやら乙女男子やらセンスいいたぬきやら天才デザイナーやらが属している。本は下北沢クラリスブックスにて委託販売中。

twitter:@sweetsonicNs

ウサギノヴィッチの「長ゼリ」

第3回

ウサギノヴィッチ

やっと本腰を入れて、自分が通ってきた「演劇」について語ろうと思えた。色々、紆余曲折はあったが、なにがきっかけかは、回を重ねる毎にそのことについては触れていきたいと思う。

まず、このエッセイっぽいものを書こうと思ったきっかけの一つは、今年から始まった大河ドラマ真田丸』である。脚本は三谷幸喜である。三谷幸喜を説明することは必要ないことかもしれない。絶対にどの世代であっても必ずは「三谷幸喜」という名前をどこかで見てきたと思うからだ。

僕が初めて三谷幸喜の脚本でドラマを見たのは、『警部補 古畑任三郎』だった。当時は小学校六年生で、ドラマがあった次の日にはそのことを友人と語っていた。しかも、当時は再放送が夕方にあってしばしば同じモノが数年に一度で放送されていた。『警部補 古畑任三郎』のすごいところというか、粋なところはインタールードというか、読者への挑戦というか、つまりは解決編の前に必ずドラマが止まって、古畑任三郎が視聴者に事件の解決についてのヒントが出揃ったことをアナウンスすることである。(三期目くらいにはそれはほとんどなくなったような気がする)

それが三谷幸喜との最初の接触と言っていいだろう。そして、高校の映画好きの友人から『12人の優しい日本人』を紹介される。これは同じ名前の舞台を映画化したものだ。その時にはまだ三谷幸喜が劇団をやっていたことはあまり知らなかった。当時の僕の流れとしては『12人の怒れる男』の流れを受けて、日本に陪審員制度があったらこうなるかもしれないというコメディだった。演劇を数年やって、もうスタッフに転向しようとしている時に、舞台版の『12人の優しい日本人』四度目の再演をDVDで見た。そのときの感想は、「すげー」「面白い」とバカみたいな感想だった。しかし、約二時間ちょっとずっと12人の役者が出ずっぱりで、舞台が進行していくのは今考えてみれば、恐ろしい感じもする。常に客の視線を感じながら舞台上に立っていることは、役者と一応やっていたにんげんとしてはちょっと緊張感あるし、休憩できないし、絶対に体験したくないことだなと思った。

12人の優しい日本人』の前の話だが、演劇をやっていた時に仲間内で話題になったのは、三谷幸喜大河ドラマをやるということだった。『新撰組!』である。もうそのときには演劇にやられていたので、演劇に気触れいていたので、「すごいものが始まる」という予感というか期待というか、一種のフィーバー状態になっていた。いざ、ドラマが始まると、「おー」と心の中で叫びながらも、京都に行く前の新撰組の話に飽きつつあった。でも、それを引きつけたのは脚本の力なのかもしれない。『新撰組!』のドラマは毎回ある一日の話として進行していく。それは今までの大河ドラマにはなかった書き方だった。そして、回を追うごとに、新しい仲間ができたり、死んだりする。その新しい仲間が、小劇場界ではちょっと有名な人だとテンションが上がった。ドラマのオープニングでクレジットに名前が挙がるだけで、期待が膨らんだ。たとえば、これは先日友人と話したのだが、勝海舟役が野田秀樹であったことはおそらく一番インパクトがあったと思う。

話が跳んでしまったが、冒頭の『真田丸』についてだが、最近は演劇関係の友人とはつるんでないので、その話にはならないが、きっと演劇人の誰かが出てくるだろうと期待している。「三谷ファミリー」という言葉があって、三谷幸喜と映画などに出演した役者さんが今のところは出ている。草刈正雄の演劇は今のところ一番だし、映画に出たことある寺島進もいい感じ、西村雅彦は三谷幸喜の同じ劇団の役者も安定したものを感じる。まだ、これから大勢の役者が出ると思う。(千利休役で桂文枝が出ることは、フライデーの時に知った)

長いことダラダラと書いてきたが、三谷幸喜は喜劇の人だ。シチュエーションコメディを書かせたら、たぶん日本で一番上手い人だと思う。それは『12人の優しい日本人』で簡単に証明できることだと思う。とにかく、サービス精神が旺盛で、人を笑わせることがすきみたいで、2009年に一度三谷幸喜の劇団である東京サンシャインボーイズが再集結したときには、役者として前半だけ登場して、舞台からはけるまでの間にほとんどアドリブのようなやりとりをして、観客を笑わせていた。そんなお茶目な三谷幸喜を見てほしいと思い最後にした動画を見てもらいたいです。爆笑必死です。

それでは、三谷幸喜を存分に楽しんでください。