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崩れる通信

「崩れる本棚」創作コンテンツ用のブログです。

崩れる通信 No.13

ここで悲しいお知らせとさほど悲しくないお知らせを一つ。

今まで「毎週土曜、夜10時更新」としてきた「崩れる通信」ですが、更新者の多忙もあり、これからは「毎週(できれば)土曜、(なんらか押したら)か、日曜の(だいたい)夜更新」という形にさせて下さい。

丸カッコが多くて読み難いので取り除くと、「毎週土曜、か、日曜の夜更新」要するに漠たる週末更新となります。

更新日を、日時とともに楽しみにして下さっている方、並びに寄稿して下さっている方には、ご迷惑をお掛けします。

さて気を取り直して。というか、さほど悲しくないお知らせは、更新者自ら寄せているエッセイが、なかなか佳い具合に書けた気がするということです。

まあ、どうでもよいですね。

紹介にうつります。一作目、紗那教授『莉子と亜紀の自動車いろは』、第3回。オープンカー編が、これにて終了です。

小粋なオチがついていて、ハリサケんばかりのエンタメを謳歌しているなあという小説。それでいて、オープンカーの使用感を余す所なく伝えるエッセイでもある。

二作目、落山羊『えいえんの少女と小説』、第3回。

こちらも気合いが入りまくっています。ななんと5000文字超!

少女小説にたいする愛情があふれていて、押し倒されそうですな。

最後に、自称「なかなか書けてる」Pさんぽ。

来週も、フワッとした感じで、よろしくお願いします。

莉子と亜紀の自動車いろは

第3回 ~オープンカー編(下)~

紗那教授

快晴の空の下、六甲山の鉢巻展望台。

莉子のオープンカーのエンジンを切った亜紀は、ふと疑問に思った。

「そういえばさ、気になったことがあるんだけど」

「ん? 何?」

「オープンで走るときって、窓は開けるもんなの? それとも閉めるというか、立てて置くもんなの?」

「んー、なかなか難しい質問だね~。結論を言えば、個人の好みだと思う」

莉子は煙草を一本くわえながら腕を組み、眉を垂れ下げて大袈裟に悩んでいる様子を見せる。

「ふーん」

「まあ、窓を開けておけばより開放感を味わえるし、窓を立てておけば風の巻き込みがちょっとは軽減されるといったところかな。後、窓を開けてるともう一つメリットがあって――」

莉子はシートとシートの間のスイッチを押し、座席とトランクの間に収納されていた幌を両手で引っ張り出す。それをフロントガラスの上部に固定する。

「開けた方が屋根を閉めやすい、かも?」

「そうなんだー」

亜紀はちょっとした疑問が解決したところで、ドアを開けて車を降りる。

「あ! 猫ちゃんがたくさん!」

彼女の顔がぱっと明るくなり、展望台に溢れかえっている多数の猫の群へと一直線に走る。

「鉢巻展望台の猫は完全に人慣れしてるからね。猫好きの亜紀にはたまらないでしょ」

莉子はコンクリートの縁に腰掛けて、煙草に火をつける。猫と戯れる亜紀を見ながら、自分の車にも視線を投げかける。タイヤとホイールは自分好みのスポーツ仕様にして、装着しているエアロパーツも改めて見るとやはりカッコいいと思ってしまう。

「ふー、お金も結構かかったなー」

嬉しいような悲しいような独り言を呟くと、

「そういえば、オープンカーって結構高いの?」

と亜紀から金に関わる話を突然振られ、貯金残高のことを考えると莉子は溜息をつきそうになる。

「なかなか痛い所を突いてくるねぇ……。実用的な車とは言い難いからこそ、やっぱり値段はそれなりに張るかなー」

<国産オープンカーの新車価格帯一例>

※生産終了している車種を含む。

・M社 人馬一体がウリの国民的オープンカー

約2,400,000円~約3,000,000円

※屋根はソフトトップ、電動ハードトップの2種類有り。

※後付で固定のハードトップを付けることも可能。

・T社 貴重なMR駆動(エンジンが後ろにある)のオープンカー

約1,700,000円~約2,400,000円

※屋根はソフトトップ。

※後付で固定のハードトップを付けることも可能。

・N社 300馬力超の大排気量スポーツカーのオープンバージョン

約4,500,000円~約5,000,000円

※屋根は電動ソフトトップ

・L社 貴重な4人乗りのラグジュアリー&スポーツオープンカー

約5,3000,000円~約6,500,000円

※屋根は電動ハードトップ

「ちなみに、ソフトトップっていうのは、あたしの車みたいに幌製の屋根のこと。ハードトップは、普通の車の屋根と同じ、金属製の屋根のこと。セキュリティとかボディ剛性を考えたらハードの方がいいけど、ソフトには軽量化っていうメリットがあるんだ。後、電動っていうのはボタン一つで自動で屋根を開閉させることね」

「へー……、って高っ! 軽自動車が2台も3台も買えちゃう!」

驚く亜紀とは対照的に、莉子は悟りを開いたような冷静な顔で煙草をふかす。

「それを言ったらお終いだよ」

紗那教授

個人サークル「教授会」の代表。

コミティア文学フリマなどの創作イベントに出没中。

作品のテイストがそれぞれで異なることが特徴的。

稀に水彩画などのイラストも描く。

「小説家になろう」アカウントページ

えいえんの少女と小説

第3回

落山羊

先10月10日のテキレボ2の余韻もひかぬままに、Twitter上ではとある話題でちょっとした盛り上がりを見せました。その名も「少女小説ラリー」! テキレボ内の企画として動く……かもしれない、企画です。ウオッシャラアアアアと思って、勢いで参加表明をしました。普段の作風をかなぐり捨ててでも少女小説が書きたい。わたくしのことはいいとしても、企画自体にはワクワクが止まりません。タイムライン上に散見される古き良き少女小説各タイトルを見るにつけても興奮しきりでした。

さて、そーんなこんなで本日は第三回、紹介させていただきますのは、二十年前の作品となります。

響野夏菜『この雪に願えるならば』、1996年発刊、集英社コバルト文庫

前回、前々回は講談社ホワイトハートを紹介させてもらったので、第三回にしてようやく天下のコバルト文庫です。余談ですが、Twitterの少女小説好きさんたちは新井素子さんの作品群から、というかたが多いようですね。

さて、この『この雪に願えるならば』は、雪に閉ざされた街・ノーウィを舞台に繰り広げられる陰鬱な物語となっております。作者の響野さんはコメディや異世界ファンタジーの長編シリーズの代表作がいくつもある有名なかたなのですが、個人的には読み切り作品がとっても独創的かつ仄暗いことをやっていて好きです。本作もそのうちのひとつで、うまく説明する自信もないままに、愛が迸って取り上げてしまいました。

少女にスポットを当てたこのエッセイなのですが、主人公はダイヴィーッド/ドードーという男です。しかし物語の中心は常にモーナネリーアという少女にあります。

まず最初に、この物語を理解する、あるいは説明するうえで非常にやっかいな点を明らかにせねばなりません。それは、わたしがこの物語を愛する所以でもあり、少女小説としては珍しい要素であるように思える点です。

『この雪に願えるならば』は、入れ子構造のファンタジーなのです。「グラスツェベート」という「現実」の中に築かれた「幻想」の街が「ノーウィ」。登場人物たちは共通しており、しかしその役割は大きく異なっています。

さてさて、ややこしいですね。

では主人公がダイヴィーッド/ドードーである、という点を念頭に置きつつ、箇条書きをしてみましょう。

まずは「現実」である「グラスツェベート」での登場人物たちの役割です。

ドードー……歌姫レシータに捨てられた孤児。とても醜い。

・ダイヴィーッド……グラスツェベートの軍事を飛躍的に進歩させた天才科学者。

・モーナネリーア……学校で忌避されるドードーに歩み寄り救う。父親によりフェイドルンとの結婚を強いられる。

・ラルフ……モーナネリーアの幼馴染。彼女を愛している。ドードーを憎み、詰る。

・フェイドルン……科学者となったドードーのスポンサーで、モーナネリーアを死に追いやった男。ドードーを「怪物氏」と呼ぶ。

・レシータ……ドードーの母親。醜い息子を認知せず、捨て、忌み嫌う。

次いで、「幻想」である「ノーウィ」での役割。

・モーナネリーア……歌姫候補の少女。ラルフに恋をしている。フェイドルンの婚約者。

・ラルフ……モーナネリーアの支持者。ダイヴィーッドの使用人で仲介人。

・フェイドルン……モーナネリーアの婚約者。街一番の有力者で、美青年。劇場のスポンサー。

・レシータ……歌劇場のプリマ。ラルフを愛している。モーナネリーアの才能に追い立てられる。

・ダイヴィーッド……ラルフの雇い主。モーナネリーアに執着する。フェイドルンに脅迫を受ける醜い男。

ドードー……謎の人物。姿を見せない。物語後半で、ラルフ、レシータを殺害。

ドードーとはダイヴィーッドの愛称なのですが、これがまた複雑なことに、別人のように述べたり描かれたり、ということがあります。わざと混乱させているんですよね。そして、物語のはじまりは「ノーウィ」だけがこの世界のすべてであるように描かれます、当たり前なのですが、「グラスツェベート」の存在というのはいわゆるどんでん返しのための装置であります。(身も蓋もないネタばらしで申し訳なくなる。)「ノーウィ」は「グラスツェベート」において、ダイヴィーッド博士の作り上げた世界であり、生きている人間はなんと博士その人のみなのです。

そこで、「ノーウィ」(幻想)での物語と、「グラスツェベート」(現実)での物語の役の振り方、たいへんに興味深いことになっております。

どちらもモーナネリーアという少女を中心に構成されていることには変わりはありません。がしかし、ですよ。ダイヴィーッドが主人公なのです。そのときにこそ、人物配置の意味がゾッとさせる巧みさを持っているわけです。

「グラスツェベート」でのモーナネリーアはドードーに好意的(恋愛ではなさそう)ですが、ドードーの接近を理由に父親により結婚を強いられ、その相手フェイドルンの虐待により死亡します。ラルフはそのせいでドードーを憎みますが、ドードーはフェイドルンの資金援助で研究をしているという、非常にあいまいな立場にあります。母レシータはドードーにとってはすべての憎悪の根源であり、ドードーのあらゆる劣等感や強烈な愛情の飢餓の原因であると語られます。そして、モーナネリーア死後、レシータはフェイドルンの愛人となっています。

「ノーウィ」でモーナネリーアはラルフ(=現実でドードーを忌避した人間)と恋をする。ラルフはダイヴィーッドの使いとしてモーナネリーアの支持者となるのですが、主人の存在はまったく伝えることなく、自らこそが支持者のように振舞います。ダイヴィーッドを裏切っているのですね。フェイドルンは「ノーウィ」でも「グラスツェベート」でもモーナネリーアの婚約者と設定され、かつダイヴィーッドを脅迫さえします。このラルフとフェイドルンは、「ノーウィ」でも「グラスツェベート」でも、ダイヴィーッドの醜さを知っている、という人物です。

レシータは、比較的「ノーウィ」上でのダイヴィーッドとのかかわりは薄いのですが、物語の展開上、ダイヴィーッドが手にかけることに。そして背中に「呪い」という文字を刻むほど、彼はレシータ殺害にはその憎悪を垣間見せます。作品中では、すべての憎悪の根源がかの女にある、と述べる文もありました。

で、肝心の「ノーウィ」のモーナネリーアはダイヴィーッドのダの字も知らない。

最初にも説明した通り、この「ノーウィ」はグラスツェベートの科学者ダイヴィーッドが作り上げたシェルターのなかの幻想世界なんです。生きている人間は、ダイヴィーッドのみ。そんならもっと都合のいい世界にすればいいのに、ともちろんダイヴィーッドもよくよく思っているわけです。

街は生きているか? 歌劇場は生きているか?

生きている。しかし、狂っている。

なぜ、花屋のデイは片腕が虹をかぶったように、ぶれてしまったのだろう。肉屋の主人は「まいど、ままいど」と繰り返すばかりになってしまったのだろう。歌い手の少年は「ラ」の音階 を突然忘れてしまったのだろう。

あの“女神”レシータでさえ、火花の散るような音を死ぬほど厭うようになったという。

そして。

なぜ、歌姫モーナネリーアは、記憶を失くしてしまったのだろう。

一昨日の、雪嵐のせいだ――。

(本文13頁より引用)

そこでこの引用、「雪嵐」。ノーウィという幻想世界を作り上げ、いざ最後の仕上げというときに、落雷によってシェルターの世界が狂ってしまった、というオチがあるのです。

ちゃんちゃん、で終われば悲惨なのですが、もっと悲惨なのでたまりません。ぞくぞくしますね。じつはこのグラスツェベート(現実)、滅びているんですよ。他でもない、科学者・ダイヴィーッド博士の作った戦争兵器によって滅びています。「ノーウィ」においても「グラスツェベート」においても、ダイヴィーッドは最後の人間なのです。わーお。

世界観設定の種明かしで終わると思いきや、『この雪に願えるならば』は舞台を再び「ノーウィ」にとって終わります。ダイヴィーッドの正体が、殺人の罪が、すべて「ノーウィ」のモーナネリーアにばれてしまいます。しかし、モーナネリーアはこれを受け入れるんですね

狂気に憑りつかれたフェイドルンをダイヴィーッドが殺し、彼自身も死にかけで、最後はモーナネリーアの腕の中で死ぬ、(ような生きるような曖昧な結末なのですが)これがもうなんというか考察しはじめればキリがないんですよね。

醜いダイヴィーッドを、その罪の告白を、受け入れるモーナネリーア。これは「ノーウィ」のモーナネリーアですから、つまり幻であり、この作品中いちばんキツイ皮肉なのではと思います。ドードーを救ってくれた、ドードーだけの天使、そのように設定されたモーナネリーアですから、雪嵐さえなければ、「ノーウィ」での世界はこの理想化された少女と醜いダイヴィーッドの物語になっていたのでしょうね。

現実ではダイヴィーッドは科学者であり、戦争兵器で大量虐殺を引き起こし、シェルターでただひとり生きる。幻想では殺人を犯し、現実での憎い人間を次々殺し、最終的にはひとりで息絶える。(死ぬと明確に描かれるわけではありませんが。)

モーナネリーアという少女にかける情熱の比重って、実のところ全然大きくないんです。醜く生まれついた自身への劣等感と、自身を棄て、息子であると決して認めようとしない美貌の母親レシータへの憎悪、体操選手であり美丈夫のラルフへの嫉妬、研究のスポンサーでありモーナネリーアを奪ったフェイドルンへの葛藤。ドードーは「あいされたい」、そう叫びます。ドードーというのはダイヴィーッドの愛称なのですが、まるで自身と切り離したかのように語るのです。醜い自分を、孤独な自分を認めたくないとでも言うように。

愛されたい。ただそれだけだった。それが大それたことなのか、ドードーには許されないのか。

罪なのか。醜いことはそれほどまでに。

(あい、されたい――。)

母の温もりを知らずに育った。恋を実らせられずに手放した。貧しさに辛酸をなめた。

それを取り戻してはいけないのか。作られた夢の中でさえ。自分の夢の中でさえ!

ダイヴィーッドは泣いていた。どうして!

(街は悪夢を繰り返した……!?)

(本文284-285頁より引用)

ドードーと呼ばれた幼いころの自分は、貧しくて、醜くて、嘲られる存在で。

ダイヴィーッド博士となったら、殺戮兵器をつくったら、富み、讃えられる――。

この物語すべてが、そんな悲しい皮肉で構成されています。考えれば考えるほどに、愛情よりも憎悪が、救ってくれた少女よりも哀れな自分が、強調されて。「あいされたい」という願望を空しく響かせながら、それに応える歌をモーナネリーアに贈られ、死んでゆく。その少女もまた自分が作り出した幻でしかない。

ワーッとなるくらい鮮やかな構成ですよね。

モーナネリーアという少女が、いかに都合よく、ドードーのなかで「自分を救う装置」として認識されているのか。本当のモーナネリーアの意志というのはほとんど描かれないために、「ノーウィ」でのモーナネリーアの愛らしさも、純粋さも、すべてが偽物であるという危い文脈にあるのです。その虚像への憧れ、愛着、迎えるはずだった夢の中での幸せ、少女のはらみうるこれらの要素が、なんと素敵に悲惨に、活きていることでしょうか。

ドードー。クラヴィーアを弾く手ね。あなたが、オルガンで慰めてくれた」

モーナネリーアが、顔を上げた。まっすぐな瞳が、彼を見つめた。

「わたし、知ってるのね。あなたを。わたしの知らないわたしが、わたしの知らない、あなたを」

(本文286-287頁より引用)

救いはあるのかないのか、「あいされたい」という願望は満たされているのか、はたして。醜い男が少女小説に主人公として登場し、かつその醜さゆえの劣等感にえんえん苛まれ、自分を受け入れなかった現実を憎み、「すべて」を受け入れてくれる少女・モーナネリーアを、自らが愛されるための舞台をつくあげる物語。その滑稽さ、悲しさ!

物語における美醜の問題ってとっても複雑であると思うのですが、それをアイコンとして気軽に利用し、おそらくそれ以上の意味を持たないというところに、少女小説らしいというか、無邪気な感じがあるように思えます。その無邪気さゆえに、『この雪に願えるならば』の完成度がちょっとびっくりするものになっているのです。

とにかくこの構成が好きで、好きで、もう紹介しようとしたら紙幅ばかりが増し増して、と、お見苦しくなりました。入れ子構造、ほんとうにいいですよね。少女小説ではあまり見かけないように思えるのですが、もしありましたらぜひ教えていただきたいです。

(そして好きな作品の紹介はするもんじゃないなと思いました。)

『この雪に願えるならば』、実は意味不明な詩のような文章もたくさん挿入されており、そこもたいへんに興味深いのです。作者は『オペラ座の怪人』や『フランケンシュタイン』をモチーフにしたと語っておりますね。鐘が重要なモチーフになっており、なんとなく、『ノートルダムドパリ』の感もうけます。ぜひ読んで、いろいろな考察をお聞かせください。(と言いたいところですが、刊行は1996年。ふう。今なら出せない本ですね、きっと。)

などと言いつつ、絶版ゆえ図書館などでも楽しんでいただけたらなあ、なんならお貸ししたいなあという『この雪に願えるならば』でした。

……ンディンドン……ディン……ドンディン……ドンディ……ンディンドン……ディンドン……ディン……

  ……ディン……ドンディ……ンディンドン……ディンドン……ディン……ドンディン……ドン……ドン……

(本文94頁より引用)

落山羊

ひとりサークル【ヲンブルペコネ】。

blog:ヲンブルペコネ

twitterアカウント:@You_Ochiyama

Pさんぽ

第15回

Pさん

それから、話は急に職場の一場面に直結する。Iさんは公言してはいないがラーメン屋を巡ることを趣味の一つとしているようだ。尤もラーメン屋には限らない。様々な種類の食物店の食物を食べ比べ、食べ食べすることを趣味の一つとしていると言った方がより適切である。尤も、その事をウェッブ上に公開してよいのかどうか確認を取っていないからこそのイニシャルのIさんである。そこには、あらゆるIさんが含まれている。情報は拡散し一度拡散した情報を再度統制するあるいは統御することは難しいかあるいは不可能である。情報理論にも確か使われていたけれども元ネタは熱力学第二の法則である「あらゆる高位のエネルギーはどんどん低位な方に落ちていって最終的には熱になって拡散して終わり」尤も意訳中の意訳でこういう類のことを「訳」とすら言わない、「意」である。翻訳家に怒られる。グーで殴られる。尤もペンを握り込んでのことである。人間の指は五本であるからして握り込める最大のペンの数は四本である。(続く)